土葬 | ふと、思うこと

ふと、思うこと

猫と美味しい食事で日々乗り切ってるアラカンおばさんの日常ブログです

親父の母、私のばーちゃんが亡くなった時は、土葬だった。

まだ昭和40年代終わり頃、私は小学生だった。

ばーちゃんの部屋に私がチラシの裏紙に書いた
「およげ!たいやきくん」の歌詞が貼ってあったから
その後なのは確かだから、3年生ぐらいか。

葬式が終わると、ばーちゃんの棺は神輿みたいに飾られ
自分の息子たちに担がれ、寺へ向かって行った。
私も誰かと手を繋いで連れ立って歩き、ついて行く。
寺の裏にある本家の敷地に着くと、6畳位の真ん中に
既に穴が細長く掘られていた。
そこへ棺を半分くらい沈むように置き、また皆で拝んだ。

しばらくして、また本家に行くと、今度は何人かの
おじさんたちはスコップ片手、おばさんたちはお花や線香
を持って、皆で墓場へ向かった。
着くと、こないだは綺麗だった神輿が何だかみすぼらしくなっていた。
おじさんたちは上着を脱ぐと、飾り布を避けたり
神輿を少々解体し始める。棺だけになり穴にすっぽり納められた。


このあたりの記憶が曖昧だ。これが当日から一気に行われて
埋められた作業なのか、初七日にまた来て二度目で行ったのか
今となっては知るすべもない。
しかし、神輿飾りを外す時、薄汚れていた記憶があり
供え物もカラスにやられていた記憶もあるので
とりあえず2回に分けて行ったと思われる。


穴に埋まった棺に、今度は周りに盛られていた土をかける。
お墓の敷地の真ん中に小さな小山が出来ていく。
「あ~あ。ばーちゃん埋まっちゃうんだ。」
そう思いながら、大人たちの作業を見ていた。
そしてふと、自分の足元を見ると、土の中から
白いものが出ているのに気づいた。
「これなぁ~に?骨?」
私の声に気づいたおじさんのひとりが
「あれあれ、出ちまっただかぁ?」と
そこにも土をかけ埋めてしまった。足で踏んづけて地均し。

「大体なんだな。」子供ながらに思った。

飼っていたジュウシマツやカブトムシを土に埋めて
葬ることはしていたから、生き物は死ぬと土に埋め
そしてやがて骨になってしまうものだと、もうこの頃には
頭の中でわかっていたから、人間も同じなんだとすぐ理解出来た。

そしてまた暫くして、ばーちゃんの墓参りに行った時
あんなにこんもりしていた山がなくなっているのにビックリした。
ばーちゃんいなくなったのか?慌てて周りに問いかけた。

「あれー?ばーちゃんは?」

凹んだ穴に土を足し均しながら、誰かが答えてくれた。

「あ~?こん中に眠ってらぁ~。」

不思議だった。人は死んだら骨になる。そこまではわかっていた。

でもそっか、よく道路で死んだ虫や鳥にアリやウジが集っている。
あんな風に土の中でも、お肉は虫に集られ無くなっちゃうから、
そしてスカスカ骸骨になっちゃうから、死んだら小さくなって
土の山も凹んじゃうんだ。色々考え巡らし理解した。

私は幼少期に、身近な人の死や埋葬風景を
目の当たりにしておいてよかったと思う。

人は必ず死ぬ、死んだら冷たい、目も開かない
もうおしゃべりすることなく、二度と動かない。
そして体は土に埋められ、虫に食われ土に還って、骨だけになる。

そんな流れを学ぶことが出来たからだ。
これもばーちゃんのおかげだ。
人は死ぬまで誰かの役に立っている。

不要に生きている人など、この世にいない。
みんな誰かの為に、何かしらの形で必要なのだ。
死ぬまでは尚のこと、死んでも骨になっても
こうして何かを教えてくれる。

生きているということだけで、この世で必要とされているということだ。


それから何年かして、親父の兄、伯父さんが亡くなった頃
本家の地域では土葬が禁止になり、火葬に変わってしまった。
その時から、ご先祖様の前からあった墓石と、新たなばーちゃんや
伯父さんたちの墓石と、2つの墓石が立っている。