なぜ阿弥陀仏が必要だったのか?
下田正弘先生の「浄土の思想」という講義を聞いてきた。
長らくの疑問、「なんで阿弥陀仏が必要なの?お釈迦さまだけでいいじゃんか?」ということの答えが、私なりに納得できた気がした。
(以下は、自分解釈まじりの勝手なメモなので、間違いがあれば私のせいです)
いわく「阿弥陀仏は(浄土経典は)仏を過去世物語から解放した」
・ まず前提として、何かよからぬ人たちが、阿弥陀仏をデッチあげて無量寿経を書いた、というイメージ(私もかつてそう思っていた。仏教学者でもそう思っている人は多いとか)は間違いで、伝統的仏教のメインストリームから出てきた。
これは、伝統教団のお坊さんたちが大乗仏典を書いて保持して学んでいたことが発掘調査などでわかってるし、事実としてそうなんでしょうね。
・ 阿弥陀が必要だったのは、歴史的な人物であるお釈迦さまが死んじゃったから。
というと、当たり前に聞こえるけれど・・・。
仏滅後100年ちょっとで、お釈迦さまの過去世物語(ジャータカ)が膨大に生み出された。サーンチの仏教遺跡(B.C.3C~)にも仏伝・過去世物語がビッチリとレリーフで刻まれている。
それだけ、仏のことを語りたい、伝えたい、という強烈なモチベーションがあった。
・ ところが、お釈迦さまは死んでしまっているから、そのモチベーションは過去世を創りだすしかない(入滅で目詰まりを起こす!)。
・そこで、今も生きている阿弥陀仏の登場。
無量寿経では、「かの如来(阿弥陀)は、このうえない完全な正覚をさとって、いまも現におり、生存し、過ごし、法を説き明かしている」と、お釈迦さまに言わせている。
※ 歴史的な人物であるお釈迦さまが生きてることにするのはちょっと・・ということで架空の阿弥陀を持ち出したのが無量寿経、お釈迦さまが実は死んでないことにしちゃったのが法華経、っていうことかな?
・ 抽象的真理(無常とか解脱とか)だけでは伝承されない。真理を具現した人(仏)と、その境涯がないと伝承されない。「解脱すると、ああいうふうになるんだなー」というモデルがないと伝わっていかない。
・ 「南無阿弥陀仏」と仏の名を唱える念仏は、もともと伝統仏教で如来の10の特性(10号)を唱えていたのの発展形(ことばとなった仏)。
そういうわけで、仏への熱い思いが、お釈迦さまの入滅で目詰まりを起こして過去物語に遡るしかなかったのを、「いまも仏はいる!」としたのが阿弥陀で、その仏がいる場所が浄土、ということになるでしょうか。
あと、面白かったのが、「信」という言葉のこと。
漢語の「信」は、サンスクリット語で「シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ」などに当たる。「濁った水を澄み切らせる宝石」「恐れを払う跳躍力」(みたいな意味なのか、そう説明されるのか、聞き逃したけれど)。
つまり、「私が~を信じる」という狭量なイメージではなくて、何かがポンッと起こるような「できごと」として捉えるべきだ、と下田先生は言う。
阿弥陀仏のことを「永遠化した釈尊」と言ってたのは、釈徹宗さんだっただろうか。
下田先生のお話を聞いて、阿弥陀仏に対する私の偏見(?)はだいぶ払拭された。
私は阿含経典信者だけど、初期仏教系の人が、阿弥陀はデッチ上げだと言うのに、ジャータカはデッチあげだと言わないのは、ちょっと不思議な気はする。創作という意味では同じじゃないかと。
いや、阿含経典だって「語られた仏」なのであって、本当はお釈迦さまが何を説いたか知るすべはないわけだけど。
とはいえ、阿含経典がビンビン自分の生に響いてくるのに対して、浄土経典をどう人生の糧にすればいいのかは、いまだよくわからない。そういう発想自体が狭量なのかもしれないけど、現代っ子なんだもん。