私に仏性はないと思う(『唯識と瑜伽行』3)
かなり乱暴なメモなので、真に受けないでください。
「仏性・如来蔵」ってのがありますよね。
どんな有情(生き物)にも、如来の本性という胎児(原因)をもっているという説。
最初はたぶん「みんな仏になる可能性がある」という普通の話だったのが、気がつけば「みんな本質は仏だ」みたいになっていた説。
斎藤明先生の講座によると、「インドよりも、現実肯定的なアジアで大ヒットした思想」。
日本人だと仏教シンパの95%ぐらいが自然に受容してて、5%ぐらいがひどく嫌っている(ように思う)。
これと唯識とがどういう関係なのか、よく知らなかったけれど、大いに関係があるらしい。
『シリーズ大乗仏教7 唯識と瑜伽行』の最後の章、8章「中国唯識思想史の展開」(吉村誠先生)はそのことを書いていて、面白かった。
ものすごく乱暴に書くと・・・
唯識派が発明した「アーラヤ識」は、煩悩含みでドクドク流れる深層意識で、あまりよろしくない。それが中国に伝わったとき、タッチの差で「みんな仏性がある」という説が流行り始めていて、じゃあこの汚らしいアーラヤ識どうすんだ?という話になり、南の方の人たちは「実はアーラヤ識の奥に『アマラ識』という無垢な識がある」と言い始めた。
それに納得がいかなかったのは、なんとあの玄奘さん。玄奘さんは「自分に仏性なんてあるのか?」という疑問を持っていて、正しい唯識の解釈を求めてインドに旅立ったのであった。
(と吉村先生は書いていた)
一切衆生に仏性があってもかまわないが、私にそんなものはない気がする。今日初めて会った男に「あなたって本当は無垢な人だよね」とリップサービスされたら、「何を根拠に?」とムカッとする、それと同じレベルで仏性・如来蔵にはどうも乗れない。
玄奘さんが本当に自分に仏性があることを疑っていたなら、あの玄奘さんにない仏性が私にあるはずがない、ほーらやっぱりね、と安心した次第です。
とはいえ、アンチ仏性唯識派の五姓各別(先天的に成仏できない人がいる)というカースト制みたいな説もひどいと思う(興福寺=法相宗はいまだにこの説を採ってるのだろうか?)。
普通に、「ほっとけば煩悩だらけだけど、頑張れば仏になれる可能性は誰にでもある」という話でいいじゃないの、と思うのですが・・・。
==8章「中国唯識思想史の展開」のメモ===========
・ インドの唯識思想は4~5世紀頃、無著・世親ブラザーズが組織大成。唯識論書は5世紀前半には中国に伝来
・ 唯識と如来蔵思想はほぼ同時期に中国に伝来したが、中国人はより早く如来蔵のほうに親しみを感じ、その理解をもって唯識思想に取り組んだ。
・ 中国では地論師が南道・北道に分裂(その後、南道のほうが隆盛)
南道・・・アーラヤ識を妄識と真識に2分。アーラヤ識の奥に
真如を求める識。
北道・・・如来蔵に冷淡→やがて衰退
・ 九識説・・・八識(アーラヤ識)は妄識だとして、真識として第九識「アマラ(無垢)識を立てた。もとはアーラヤ識が転換した清浄な状態を指す「アマラ識」を、もともとあるものと考えた(これが如来蔵みたいなもの9。
・ 玄奘(602-664)はなぜわざわざインドに行ったか。
伝記によれば中国各地で「摂大乗論」を学んだが、(九識を読み込む如来蔵的な)解釈に疑問が沸き、「瑜伽師地論」を得るべくインドに旅立った。
玄奘が自らに仏性があるかどうかを疑っていた、という伝記の記述がある(「大唐大慈恩寺三蔵奉仕。(※)
・ 玄奘の訳業は、唯識経論・アビダルマ論書・大般若経の3つに大別できる。
→如来蔵と切り離した玄奘流のニュー唯識派と、やっぱり如来蔵な人たちとがいた。
・ ニュー唯識派は、五姓各別(ごしょうかくべつ)=一部のものは成仏できない、という説をとった。五つの種姓=声門種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定(ふじょう)種姓・無性有情(むしょううじょう)。無性有情は成仏できないんだって。
(初出は「仏地経論」、649年に玄奘が訳)
(※)
日本では最澄「法華秀句」の記述に基づいて、「玄奘がインドから帰国する際、中国では無仏性は受け容れられないだろうから、持ち帰る経論の中から無仏性の語を削除したいと述べたところ、戒賢に阿責された」という説が流布した。しかし最澄が引用した道倫「瑜伽論記」によれば、阿責されたのは玄奘でなくインドの諸師である。
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