あーらやだアーラヤ識(『唯識と瑜伽行』その2)
つい先週まで、唯識っていったらあれでしょ、アーラヤ識でしょ、
と思っていた。
アーラヤ識とは、「心の最深層の無意識レベルで活動している潜在
意識」というように説明をされる。
これは唯識の人たち(瑜伽行者の人たち)のアイデアだ。輪廻して
も、私のアーラヤ識はずっと続くと彼らは考えた。
それまでの仏教は6つの認識(眼・耳・鼻・舌・身・意)を考えて
いたけど、どうもそれ以外にもあるんじゃないかってことで、
唯識の人たちは8識(6識+マナ識、アーラヤ識)を想定した。
アーラヤ識については、「フロイトより1500年ぐらい前に潜在意識
を思いついた仏教徒はすげー」という人たちがいる一方で、
「アーラヤ識って結局、アートマンに戻っただけでしょ。つまんな
いの」という人たちもいて、私の印象も後者に近かった。
確かに、「無我というなら、輪廻する主体は何なのさ?」という
面倒くさい問題に、「いやアーラヤ識が続くんです」という答えは
説明がつきやすい。
だからこそ、つまんないというか、答えに窮して思いついたアイデ
アなのかしらと思っていたら、どうもそう単純ではないらしい。
アーラヤ識というアイデアがどうやって出てきたかは、
まだ定説がないそうだが、瑜伽行者というぐらい瞑想マニアの人達
から出てきたのだから、理屈より瞑想体験から出てきたのかもしれ
ない、という説は、そうかもしれないと思った。
瞑想をしてると、外界のすべての刺激を感知しない滅尽定という
境地に至るそうだが、そのまま死んじゃう人はあまりいなくて、
なぜかフッと意識が戻ってくるそうだ。
なぜ・いつ戻ってくるのかはわからないけど、戻ってくるそうだ。
そういう体験をした行者たちが「あれっ、オレたちなんで戻って
これたの?」「6識全部が滅しても、何かが続いてるんじゃね?」
と思ったとしても不思議ではない。
PCがスリープ状態で真っ暗になっても、
待機電力とOSが静かに動いているようなものか?
とりあえずアーラヤ識への偏見は少し薄れたわたくしだった。
以下は『唯識と瑜伽行』(春秋社)の1章・6章からのメモ。
======6章「アーラヤ識論」山部能宜先生========
・ アーラヤ識なる概念がどのような経緯で導入されのかについては、種々の議論があり、今日でも定説はない。
(瞑想体験によるものか?
無我説のもつ理論的困難を解決するために要請されたものか?)
・ シュミットハウゼン説
本来、アーラヤ識は、滅尽定という心の中断をつなぐものにすぎなかった。
その後、一生のあいだ身体を維持するもの→有情の基本的な構成要素とみなされるようになる
もともと生命を維持するポジティブなものだったのが、輪廻的生存への執着というネガティブな側面を持つように。
・ 6章の著者=山部能宜先生の推測
あるグループの行者たちが、何等かの内的宗教体験によって、これまで言われてなかった新しい体験(この場合はアーラヤ識の存在という)宗教的確信を得たなら、最初は誤解を避けるためやや婉曲に語り始め、それがある程度耳になじんだところで進んで革新的体験を語ることもありうるのでは(すべてが文献に残っているとは限らない)。
「解深密経」の「心意識相品」の有名な偈
「我と誤解されることを恐れて、未熟なものたちにはアーダーナ識(アラヤ識)を開示しなかった」
・ アーラヤ識と、フロイトのいう深層心理学「無意識」との違い
深層心理学の「抑圧」の概念がアーラヤ識にはない、
アーラヤ識の輪廻の概念が心理学にはない など
===第1章「唯識と瑜伽行」(桂紹隆先生)=========
・アーラーヤ識は「唯識三十頌」(世親)いうところの三種の「識転変」のうち「異熟転変」。
深い瞑想から出てきたとき、前の経験を想起できることから、何等かの識が続いている、と推測した。「異熟」とは、果物が変化しながら熟していくことで、説一切有部のアビダルマでは人間の行為(業)がその果報を生み出すこと、および果報そのものを意味する。
アビダルマに精通していた世親は、日常的な種々の認識の背後にあると想定された「根本識」を「異熟識」と呼び、さらに「アーダーナ識」(執着する識)、「アーラーヤ識」(沈潜/隠没する識)と呼び変えていった。
・アーラヤ識は過去の経験が植えつけた潜在印象(薫習/習気)を、未来が生み出す原因(種子)としてすべて内包している。
輪廻が続く限り「暴流のごとく」流れ続ける。
・アーラヤ識を「拠り所」として、それを「対象(所縁)」として生じるのが「思惟/意」と呼ばれる第二の識転変(我見・我痴・我慢・我愛の4煩悩を随伴する染汚意、自我意識)。
第三の識転変は、六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)。前5識は水面に生じる波のようであり、根本識(アーラヤ識)に蓄えられているそれぞれの潜在印象(薫習)から同時に、もしくは異時に、縁があれば生じる。6つめの意識は、滅尽定など高度な瞑想や深い睡眠や悶絶状態を除けば常に生じている。

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