分析的な北西インドと、「空」の南インド
朝日カルチャーの「仏教史講義」(斎藤明先生、東大インド哲学仏教学研究室の教授)の何回目かがあった。今回のテーマは、部派仏教と、最大派閥・説一切有部の恐怖の分類哲学「五位七十五法」について。
斎藤先生は、いま仏教用語をより意味がとりやすい現代訳語(日本語、英語)にするプロジェクトをやっているそうだ。その成果として、五位七十五法の現代語訳がウェブで誰でも見られる。
「仏教用語の用例集(バウッダコーシャ)および現代基準訳語集」
(「五位七十五法の一覧」というところが見やすい)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/html/index_75dharma.html#
そんな細かいことは仏教的に生きるうえで関係ないじゃないか、と感じるかもしれないが、
基本タームを正しく理解することが仏教を理解するうえで決定的に重要なんじゃないかと思う。たとえば、仏典の現代語訳に「欲望」という言葉は良くない意味でたくさん出てくるけど、斎藤先生によると、もともと日本語には「欲」はあっても「欲望」という言葉はなくて、近代になってdesireの和訳として作られた言葉なんですって(例によって、勝手に書いてるので間違いがあったら私のせいです)。
五位七十五法でも、chanda(欲求、desire)というニュートラルな言葉と、rāga(貪欲、lust)というよろしくない言葉が区別されている。
もうやっぱ、パーリ語やサンスクリット語を学ばないと始まらないんじゃないか、と思えてきて、気が遠くなる。
説一切有部は、「私」や世界はどんどん変わっていく(=無常)だけれど、それを構成する部品にどんどん切り分けていくと、その部品自体はずっと実在すると考えた。
現在でもよく「怒りのスイッチが入った」とか、「やる気スイッチON!」(某学習塾グループ)なんて言いますが、それに近いかもしれない。「怒り」とか諸々の部品自体はずっと実在していて、そのスイッチのON・OFFがどんどん変わる。つまり「要素」は普遍で「働き」は変わる、要素の集合体にすぎない「私」はどんどん変わる、という意味での無常。
でも、お釈迦さまが「無常」と説いてるのに、「要素はずっと変わらず実在する」なんて、変じゃないの? なんでそんなふうに考えたの?という疑問が当然わいてくるだろう(実際、「お釈迦さまが言った無常はそういう意味じゃない!」つって大乗仏教の般若系の人たちが「空」を主張したのだから、ここは仏教史で決定的に重要な話だ)。
この日も、そういう質問をした方がいらした。
それに対する斎藤先生の答えは、「私もお釈迦さまはそういう意味で言ったんじゃないとは思いますが、でもお釈迦さまが言うことと矛盾しない、と彼ら(説一切有部の人たち)は考えたんですね」。
たしかに、仏典の古層と言われるものを読んでも、無常の意味をそんなに事細かに書いてはいないし、「要素は普遍・働きは変わる」でも別に矛盾しない気がする。
これに関して『仏教は宇宙をどう見るか』(著・佐々木閑先生)に書いてあったことが、個人的には「なるほど!」と思った。
彼らが、要素は普遍、と考えた理由が3つ挙げてあって、佐々木先生が「最も興味深い」とする3つ目の理由。それは「業のメカニズム」。
いま自分が悪事を働いたとして、その悪事の結果が、何回目かの来世で「地獄堕ち」という結果を生むとする。現在の悪事と、遠い将来の地獄堕ちは、どういうメカニズムで繋がっているのか?
もし「私」という永遠不変の実体があるなら、話は簡単で、繋がるに決まっている。でも、仏教は永遠不変の「私」という実在を否定している(無我)。
「業の作用を伝達できる実体存在はどこにもない。あるのは刹那ごとの要素の集合体だけである。そのような無為転変の世界で、時間的に隔たった業の因果関係がなぜ成り立つのか。この問題を突き詰めていった結果,『倶舎論』は、『時間的に隔たった遠い未来の結果というものも、実在している。だから、今現在の原因が遠い未来の結果と連結可能なのだ』という見解に達したのである」(『仏教は宇宙をどう見るか』P105~106)。
「いいことをすればいい未来、悪いことをすれば悪い未来」という業の思想が仏教になければ、「よし、正しく生きよう」とは思えない。そのことと「無我」とを、どう両立させるのか、というのは、相当に頭の痛い問題だったのでしょうね。
それから、斎藤先生のお話で、すごく面白かった一節。
お釈迦さまも北西インドの人で要素に切り分けるのが好きだし、説一切有部も北インドで勢力を持った一派。北インドは古くからギリシアと交流があって、要素主義で分析的なのはギリシア的な思考パターンでもあるという。
それに対して、インド土着の思考パターンは神秘的で一元的。要素主義にアンチを唱えた「空」の思想は南インドから出てきた(ナーガールジュナも南インドの人)。
なるほど、こういうところに、ご当地性が関係しているとは。