とどのつまり仏教の何が画期的だったのか | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

とどのつまり仏教の何が画期的だったのか

前にちょっと書いたけれど、朝日カルチャーセンターでの斎藤明先生(東大大学院教授)の「仏教史講義」全24回が始まった。びっくりしたことに、生徒が数十人、100人近いかもしれない盛況ぶりだった。



第1回目のテーマは「仏教の何が画期的だったのか」。

聴きたくなるでしょう?


※例によって、私が勝手にメモ的にちょっとだけ書くので、間違いがあれば私のせいです。



仏教の何が画期的だったのか。それはずばり「縁起」という考え方

仏教の核というと、無常・無我・四諦・八正道などいろんな基礎タームが出てくるけれど、その根本中の根本は「縁起」であると。無常・無我・四諦・八正道などなどは、縁起を核として位置づけられる(これは第2回のテーマ。うひひ、楽しみだ)



縁起というと、後代に、あのイマイチ覚えられない「十二縁起」に整備される。

けれど、もともとの縁起の核を言えば、「苦しいのには原因がある」ということ。お釈迦さまが「この苦しさは何ごとか」と思って6年坐って考えた末に、「あっ、原因があるんだ」「その原因を取り除けば、苦はなくなるんだ」と発見した・・・みたいなことが、仏教の根本中の根本ということになる。



阿含経典に「沙門果経」(パーリ長部・第2経)というお経がある。

沙門(出家修行者)になると何かいいこと(果)があるのか?と、阿闍梨王が新思想家(六師外道)に聞いて回る話。お釈迦様と同時代に勃興した新思想がわかるお経として有名だ。

「沙門になるといいことがあるの?」という問いは、とどのつまり、

「善い行いをすればいいことがあるのか?」「行いと、その結果は、関係あるのか?」という問いである。



六師外道の思想の概略は適当に調べていただくとして、

「行為と結果は関係ある」と言い切ったのが、お釈迦さまだった。



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ブッダの思想は、35歳のとき、ブッダガヤーで悟ったとされる縁起pratiitya-samutpaadaの道理にきわまるといえる。心が貪り(むさぼり)・瞋り(いかり)・癡(おろかさ)に代表される煩悩(惑)を伴い、身体・言葉・思考による行為(業)がなされると、その結果として苦悩(苦)がもたらされる。

縁起の思想は、いかにして生存の苦悩が生まれ、いかにしてそれは克服され、ニルヴァーナとよばれた静謐の境地が獲得されるかの因果を示す。(中略)

縁起説の骨格は以上のような惑・業・苦にあるが、貪りや瞋りなどの情動的煩悩の原因として、さらに認識の構造や苦楽の感受が挿入されて説明されることにより、次第に因果の項目(支分)は増やされていった。


(当日配られた資料「仏教概説」より。書名は不明)

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心や世界を要素に分けたり、「神様が決めるんじゃないよ」と考えることは、当時の新思想家・六師外道もやったけれど、この「縁起」はお釈迦さまの画期的なアイデアだった・・・と斎藤先生は言う。



仏教に詳しい人は、何をいまさらと思うかもしれない。でも、あんまりにも多様化した仏教を知れば知るほど、こういう核の中の核がわからなくなってくる。

「あなたが苦しいのには原因がある。その原因を取り除けば苦しくなくなる」

つってお釈迦さまが言ってるわけですよ。もう勇気100倍ですよね。希望の星だよね。この言葉だけで、死ぬまで生きていけるよね。



だから仏教を学んだり瞑想したり云々で、結局は「苦しさ、減った?」というのが問題なわけですよね。我が身を振り返れば・・・たぶん減りました。





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