西欧はなぜ仏教を怖れたか(『虚無の信仰』その2)
昨日の本『虚無の信仰』(トランスビュー、2002年、
著:ロジェ=ポル・ドロワ著1997年、 訳:島田裕巳・田桐正彦)
のメモのつづき。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11443767920.html
◆涅槃は「魂の消滅」?
19世紀にフランスをはじめとする西欧で、
仏教がニヒリズムだとしてめちゃくちゃ言われたのは
「涅槃」の定義によるところが大きいようだ。
「涅槃(ニルヴァーナ)、すなわち完全なるアネアンティスマン(aneantissement=無化)の状態に入り、身体と魂の決定的な破壊がおこなわれた」
(訳者はアネアンティスマンを「魂の消滅」と訳している)。
これはウージェーヌ・ビリュヌフという偉大な研究者の名著『イ ンド仏教史入門』に出てくる一節。ビリュヌフはパーリ語・サスクリット語などの文献を読んで、慎重な留保をつけて書いているのだが、以来、お墨付きを得たかのように「涅槃=魂の消滅」という定義が西欧を席捲してしまった。
しかも、ショーペンハウエルが「そこがいいんじゃない!」と仏教を絶賛したものだから、「ショーペンハウエル=ニヒリズム=仏教」という図式が流行した(実はショーペンハウエルもニーチェも、そんなに仏教を知らなかったらしい)。
キリスト教者や様々な思想家の文章が引用されているのだが、
論点がどんどんアサッテの方向にいってしまい、ドキドキする。
例えば、自らの永続性を求めるのは人類の基本欲求なのに、魂の消滅を求める仏教徒が何億人もいるとは信じがたい。彼らは人類なのか?人類には2種類いるのか?とか。
アーリア人が暑さで衰弱して狂ったんじゃないか?とか。
「われわれを外界に結び付けているつながりを断ち切ること、新たな欲望の芽をすべて摘み取り、摘み取ることが解放だと信じること」
「存在すること、行動することへのこうした倦怠感を黙って受け入れ、もっとも深い存在のしかたとは、もっとも貧しく、もっとも寒々とした、もっとも無気力な存在のしかたであると信じること、これはまさに生存のための闘争における敗北にも等しい厭世的な態度である。涅槃は、じつのところ個人と民族の消滅(アネアンティスマン)に行き着く」
(J.M.ギョヨー、1887『来るべき無宗教』)
結局、研究が進むにつれて、「魂の消滅をもくろむ仏教」といった見方は「なんか違うみたい」ということで、19世紀のうちに立ち消えになった。
西欧の仏教観がアサッテの方向に行ったのは、とどのつまり、文献だけ読んで、実際のアジアの仏教徒を全然知らずに空想で議論していたからだと思う。
仏教徒が何億人いても、涅槃なんて意識していたのはその数%でしょう。ほとんどの場合、仏教に求めたのは、功徳を積んで現世と来世の幸せを祈る、呪文で災厄を避ける、国家を護る、極楽に行く、先祖を供養する・・といったことで。
でも一方で、いきなり仏典、とくに初期仏典(阿含)を読んだら、19世紀の西欧人のように感じるのは仕方ないかもしれない、とも思う。
私自身、従来の仏教信仰と関係なくいきなり仏典を読んだわけで、19世紀西欧人と立場は同じだ(今の新しい“仏教ファン”はそうかもしれない)。初期仏典の文字だけ読めば、上に引用したギョヨーの文章も半分ぐらいは、「そうだよね・・でもそこがいいんじゃない!」と思ったりもして。
だから、この『虚無の信仰』は自分を写す鏡として、他人事とは思えなかった。

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