真如、空についての勝手なイメージ(『意識の形而上学』)
『大乗起信論』(岩波文庫)を読んだので、あわせて
『意識の形而上学 「大乗起信論」の哲学』(井筒俊彦著・中公文庫)も読んでみた。
イスラム思想が専門の井筒俊彦先生の本は初めて読んだ。哲学者として相当すごい人であるらしい。
昨年きいた下田正弘先生の講演でこの本の話が出たのだが、無常、無我、空、といったものが、実は豊饒な「有」と同じなのだ、というお話が、井筒先生の本で少し理解できたように思う。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11423221213.html
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この思想コンテクストでの「無」意識を、我々は否定的消極性においてのみ理解してはならない。つまり「無」意識は、消極的に何物の意識でもない(例えば気絶失神のように)というだけのことではない。そうではなくて、反対に分節に向う内的衝迫の緊張に満ちた意識の「無」分節態なのである。恰度存在のゼロ・ポイントが、たんに一物もそこに存在しないという消極的状態ではなくて、(確かに現に一物の影すらないが)限りない存在分節の可能性を孕んだ「有」的緊張の極限であったように。
だからこそ、意識のゼロ・ポイントとしての「無」意識は、そのまま自己分節して「有」意識に転成するのだ。
(『意識の形而上学 「大乗起信論」の哲学』より)
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またもや勝手なイメージなのだが、ここで私が思い出したのは、
小学校の理科の時間に見た細胞分裂のビデオ。
ひとつの受精卵が、2つ、4つと、一瞬も止まらずどんどん分裂していく。無分節の1つの球がすべての分節の可能性を孕んでいる。
ただ違うのは、世界の分節は細胞分裂のように時系列に進むのではないということ。
私たちの意識が勝手に分節しただけの世界は、その分節を取り払えば、1つの豊饒な球としてただそこに投げ出されている。
真如、空ってそういうイメージかしら? 違うかもしれないけど。
東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (中公文庫BIBLIO)