ついにお釈迦さまが消えちゃった密教
南直哉さんの講座「仏教・私流」、10月は「密教概観」その2。
空海さんは中国留学で、最新流行だった真言密教を学んで日本に持って帰る。
本日は、密教の主要経典のひとつ「大日経」(650年頃成立)のお話だった。
お釈迦さま時代から1000年以上、思えば遠くに来たもんだ、という変容ぶりだ。
「大日経」は読んだのだが、やっぱり話を聞くと、てきめんにわかる。
※以下は、自分の記憶メモなので、南さんの言葉そのものでなく乱暴に書いてあります。網羅的でもありません。
・ついにお釈迦さまがどっかいっちゃった
大乗仏典は建前としてお釈迦様が説いた(仏説)ことになっていた。内心は阿弥陀が一番偉いと思っている派も、それを説いた人としてお釈迦様を登場させていた。
→大日経では正直というべきか、ついにお釈迦様は消えてしまって、大日如来(毘盧遮那如来)が法を説く
如来なのにアクセサリー付き
・ ボディガードの執金剛が大出世
大乗仏典では菩薩が主役や準主役
→大日経では、準主役として執金剛が登場。初期仏教ではお釈迦様のボディーガードに過ぎなかった執金剛が大出世。
・ 完璧なコピーは本物と同じ
身語意(体、言葉、心)で大日如来をコピーせよ。象徴するものと象徴されるものは同一である。
・ 「自分の心」が一番偉い
それまでの仏教では、菩提(≒悟り)はどこかにある境地のイメージで、修行によって到達する。
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大日経では、菩提は、清浄なる自分の心を知ること
「如何が菩提とならば、いわく実の如く自心を知るなり」「何を以っての故にとならば、(自心の)本性は清浄なるがゆえに」
(「如実知自心」がもっとも大事な言葉)。
心を分解してコト細かに分析(心の六十相。まるでアビダルマみたい)
・ アッという間に成仏できる
「久しく勤苦せずして、すなわち一切蓋障三昧を得」
・ いちおう「我」を否定
普通に見て仏教以前の「アートマンとブラフマンの合一」にそっくりだが、仏教である以上、アートマン(我)の実体視を認めない。大日経では口を極めてアートマンを否定する。でも、文脈上は「心」が「我」と同じ機能を果たしている。
どう考えても「心が清浄」ではない私としては、「自分の心」なぞ知りたくないのだが……。