瞑想と坐禅、どっちをやる?(「サンガジャパンVOL.11」瞑想特集)
仏教雑誌『サンガジャパンVol.11』(2012年 秋号)は、瞑想の特集だった。
上座部仏教の瞑想(サマタ、ヴィパッサナー)、禅宗の坐禅、ティク・ナット・ハン師のマインドフルネス、そのほかいろいろな人がいろいろな観点で瞑想のことを書いていて、ためになった。
以前、スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想講座と、曹洞宗の坐禅の会に両方行ったことがあるが、どちらが自分に向くのか悩ましいところだ。
前者は、長老いわく「実況中継で頭の中を忙しくする」、たとえば歩行瞑想なら「右足が出る、地面につく、離れる」とかって自分のすべてを意識化する(気づく、サティ)。やってみると、確かに思考があっちゃこっちゃくだらないことに飛び交わないようになる(今号の『サンガジャパン』で長老が詳しく書いている)。
そのあとでカジってみた曹洞宗の坐禅は、「ただ坐る」ということで、そのあいだ思考をどうすればいいのかわからなかった。ただ坐る意味も、よくわからなかった。
今号で、ドイツ人禅僧のネルケ無方さんが、そのこと―-瞑想と坐禅の違いに触れていて、得心した。
瞑想は「メタ認知」で、坐禅は「メタ認知するな」ということだという。
瞑想で、たとえば「雨がパラパラ降っている」と気づく。
「雨がパラパラ降っている」と気づく、という(心の動きに)気づく。(メタ認知)
「雨がパラパラ降っている」と気づく、ということに気づいた、ということに気づく。
(メタメタ認知)
というふうに、心がどんどんメタレベルに浮揚して、メタメタメタメタメタ……認知になってパンクする、かもしれない。自分を見ている、という自分を見ている、という自分を見ている・・・というふうに。
それに対して「道元の対処法は、いたって簡単かつ革命的でした。『メタ認知するな、認知せよ。心を身体に戻せ、ただ坐れ!』」(ネルケさん)
なるほど。瞑想(止観)の詳細なノウハウを中国で学んだ道元さんが、わざわざ「ただ坐る」(只管打坐)ことを勧めたのは、そういうことなのか。
(南直哉さんの場合は自著の中で、坐禅はすべての動きを止めることで、言語で仮設された世界を縁起レベルに解体する、というようなことを書いていた)。
で、「瞑想と坐禅とどちらがいいか」については、ネルケさんは「人それぞれ」だという。ただ、「理屈っぽい人間ほど、現実を<上から=メタレベル>見がち」で、とどまることを知らずにメタメタメタ・・・になるので、理屈っぽい人は「ただ坐る」のがいいかもしれない、とネルケさんは書いていた。
両方やってみて、自分にしっくりくるほうを続ければいいと思う。
忙しく暮らしていると、瞑想や坐禅にたとえば1日30分を割くことが難しい
その点、『サンガジャパン』で紹介されていたティク・ナット・ハン師のマインドフルネスは、特に時間をとらなくていい、日常生活はすべて瞑想になる、という。
たとえばご飯を食べるとき、食べ物をよく見つめて、それが太陽・土・水・人によってどのように目前にたどり着いたかを想像し、感謝し、自分の身体に入っていくことを意識し……というふうに、日常生活のすべてを意識化(気づく)せよ、という。
これも軽く試してみたが、たしかに気持ちがいい。思考が不毛にあちこち飛び交うのを防げる。
あと、2010年に出た『現代瞑想論』(春秋社)の著者、葛西賢太氏のインタビューもあって、この本を読んでみたくなった。
付属のCDには、ティク・ナット・ハン式の瞑想ガイドが入っている。