大乗小乗のわりあい@7世紀インド(『大唐西域記』その2)
『大唐西域記』(平凡社)のつづき。
玄奘さんは、行く先々で、伽藍がいくつあるとか僧徒が何人いるとか、「小乗(または大乗)を学んでいる」と書き留めている。
それを本の最後の補注で「西域記に見える大・小乗の分布」として、地域名と大乗・小乗(部派別)を列挙し、集計した表も載っている。
それによると登場する計100地域のうち
大乗仏教 25地域
大小兼学 15地域
小乗 60地域(部派合計)
これはとても面白いことだ。
だって玄奘さんがインドに行ったのは
7世紀ですよ(ナーランダー寺院滞在は634~643年)。
この頃は、大乗仏教の最終段階である密教の成立も間近で
「大日経」は650年頃に成立したとされている。
つまり玄奘さんが行った頃のインドには、
すでに般若系仏典も法華経も華厳経も、中論も唯識もあって、
常軌を逸した量の大乗仏典・論書ができあがっていた。
それなのに、実際に学ばれていたのは、小乗がメイン。
膨大な大乗文書がある割に、学んでいた人は意外と少ないわけだ。
4~5世紀に遡ると、もっと少なくて
大乗教団の存在を裏付ける歴史的史料が
いっこうに出てこないそうだ。
インドの大乗仏教は経典制作運動だった、という
下田正弘先生の見立ても納得がいくというものだ。
ところがその頃、中国では大乗仏教が隆盛で、
それを輸入した日本で聖徳太子が著した『三経義疏』(611~615年)は、
「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の注釈書。
インドでそれほど普及してない大乗仏典の、
なかでも法華経以外はマニア度の高いものを
日本は国家プロジェクトとして導入していたのだから面白い。

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