神か阿弥陀に丸投げできれば・・・(映画「ルルドの泉で」) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

神か阿弥陀に丸投げできれば・・・(映画「ルルドの泉で」)

2011年末に日本で公開された『ルルドの泉で』(2009年、フランス=オーストリア=ドイツ)という映画がDVDになったので観た。

フランスとスペインの国境あたりにある「ルルドの泉」は、カトリックの巡礼地。洞窟から湧き出る水で病気が治るという“奇蹟の泉”として、世界中から重病・不治の病の人がワラにもすがる想いでやってくる。私も、家族がガンになったとき、ルルドの泉と同じ成分だという怪しい水のことは話題にのぼった。ガンの患者団体の人に聞いたら、みんなでルルドツアーに行ったそうだ。

映画は、ツアー客向けホテルの食堂のシーンで始まる。安っぽい食堂に、「アベマリア」が流れて、車椅子の人や介護人や観光客が集まってくる。このファーストシーンで、ただならぬ映画だと確信する。

ツアー客のなかで、全身麻痺のクリスティーヌだけに奇蹟が起こる。夜中に突然、歩けるようになるのだ。なかにはクリスティーヌよりよっぽど信心深く、毎年来ている人や奉仕活動をしている人がいる。なのになぜ、あまり信仰が深くないクリスティーヌだけに奇蹟が起こったのか? 周囲に、疑惑や嫉妬の感情が起こり――。

ツアー客の一人が、神父に「なぜ彼女なのですか?」と訊く。
神父は、こんなふうに答える。
神は自由なのです。その行いは時に謎だ。問うても答えはない。
たとえばピアノの才能が、ある人にはあって、ある人にはないように」

ただ、クリスティーヌの病気は波があって、もとの麻痺状態に戻ってしまう可能性も示唆される。「だとしたら神は残酷よね」「もとに戻ったら奇蹟でも何でもないんだから神は関係ないわ」みたいな会話も、ツアー客のあいだで交わされる。

最後は、その食堂でのお別れパーティのシーン。
一人に奇蹟が起こったことについて、神父は「神は見守っていて下さる。独りではない」と言う。神が見ている証拠という意味で、奇蹟が起こらなかった人にとっても恩寵なのだ。
このシーンでも、食堂の安っぽく赤い提灯や、ダサダサな歌とダンスが、いかにも観光地のツアー最終日のリアリティを醸し出していた。

なんか、キリスト教徒もいいかもなあ、と思った。
お釈迦さまは、道は示してくれるけれど、歩くのはご自分でどうぞ、というわけで自己責任だ。そこが好きなのだけれど、弱っているときにはけっこうしんどい。
クリスチャンは努力をしながらも、最後は「神に問うても答えはない」といって神に丸投げ、お任せするのは、それはそれで安らかなのかもしれない。諦めがつく。私は弱っているのだろうか。神でなければ阿弥陀如来でもいいのだけれど。



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