大日如来とブラフマンとユダヤ=キリストの神 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

大日如来とブラフマンとユダヤ=キリストの神

(一昨日、密教の話を聞いたので、前に読んだ本から、それに関連するメモ。というか長すぎる独り言・・)



真言宗のお寺に行くと、本尊として大日如来が鎮座していたりする。大日如来は密教経典・大日経で創作された仏さまで、よく「宇宙そのもの」などと説明される(大日如来=ヴァイローチャナ=毘盧遮那仏だから、華厳経の東大寺の大仏も仲間)。



宇宙そのもの、「絶対者」である大日如来。ふつうに考えて、仏教以前にあったバラモン教の「ブラフマン」とそっくりである。

大日/ブラフマンは、ユダヤ・キリスト教の神とかなり違う。ユダヤ・キリスト教の神は人間の望みなど完全無視だが、大日/ブラフマンは人間が都合よく動かせるのだ。しかも、宇宙そのものの割に、「オラの牝牛がたくさん子を産みますように」といった、やたら細かい望みに耳を傾けてくれる。ただし絶対者とコンタクトするには、儀礼(いけにえや護摩焚き)を行い、宇宙語(真言。ばじそわか~みたいなやつ)で話しかけなければいけない。

これは釈迦さまが考えたことと程遠いので、「密教は仏教じゃない」論者が根強くいるわけですね。


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東寺の大日如来


で、密教では大日如来との一体化(これが生きているうちに成仏できれる即身成仏)を目指すらしいのだが、これもふつうに考えてウパニシャッド哲学の「梵我一如」(ブラフマンとアートマンは同じ)と同じじゃねーか、と思える。



しかしこの、「同じ」という意味が、前からよくわからなかった。

ブラフマン(宇宙そのもの)と、アートマン(永遠なる自分の魂みたいなもの)が同じとは、どういう意味なのか?

フラクタル(すべての部分が全体と同じ形)みたいな話なのか?

そんな抽象的なことを古代インド人は考えたのか?




そう疑問に思っていたところ、『新アジア仏教史01 仏教出現の背景』(佼成出版社)の「第3章 宗教の起源と展開」(著:片岡啓先生)に面白いことが書いてあった。

思想の側から考えるとピンとこないが、儀式の側から考えると、そういうことかと腑におちる気がする。



以下は同書からのメモ(青字は引用)。



インド最古の文献「リグヴェーダ」(神々を讃える賛歌、紀元前13世紀頃を中心に長い間に成った)によると


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人は願望をもって神々を祭場に招き、賛歌を唱え、供物を祭火に投じ捧げる。(中略)

信頼された神々は子孫の反映や家畜の増殖などの願望を満たす。

ここにあるのは祭式を媒介とした富の交換である。(中略)

(貸し借りのメタファー)

神にいわば「貸し」を作った人間が、命令形を用いて神に果報を求め呼びかけるのである。


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祭式は、家畜の増殖といった現世利益だけでなく、「あの世でいい思いをする」ことを約束するものもある。そのために報酬を仲介役であるバラモン(祭官)に払う。

そこで、神々に贈ったもの(イシュタープールタ­=リグヴェーダの最新層である10巻に登場)は、天界に先に昇って、「あの世」でスタンバイしている。祭主が「あの世」に行った時、イシュタープールタと合体して、「これは私が贈ったものだ」と宣言する。

いわば献供貯金の本人確認である」。



しかも、「あの世」に積み立てられた功徳貯金が底をつくと、流れ星になって、この世に転落してしまったりする。

神々との取引の背後にあった帳簿計算のメタファーは、ここでは個人の通帳に閉じたものとなっている。ウパニシャッドに登場する業の観念の先駆をここに見るのは容易である



そう考えると、アートマンは、功徳貯金の名義人、ということになる。

そりゃそうだよね。現世で積んだ功徳貯金は、輪廻しても必ず来世で自分(アートマン)が受け取れる、と確約してもらわなければ、功徳積み立てをする意味がないもんね。



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密教の護摩、もとはバラモン教のホーマ




そして、ヴェーダには祭式の次第がこと細かに書かれているのだが、そこに現われるのが、宇宙と自分を対応させる所作だという。



そこに顕著に現われているのは異なる領域にある二つの項(例えば祭場の構成要素と宇宙の神秘的力)を対応関係の中に捉え同置するメタファー的思考である



例えば、アグニシュトーマ祭で身体の中央である腹部に巻かれる腰紐のアシは、インドラがヴリトラに投げたヴァジュラに由来すると説明される



白ヤジュルヴェーダの『シャタパダ・ブラーフマナ』は、<神格に関して><祭式に関して><自己に関して>として異なる三領域を設定し、その対応を示すのを常套手段とする。(中略)宇宙と人間とを対応づけるウパニシャッドの梵我一如の思想は、ブラーフマナの思考法から発展してきたものである



なるほど、祭式のコスチュームから何から、「これは宇宙=ブラフマンのこれに対応してます」と言われれば、「自分とブラフマンは一体、同じ」と実感できるだろう。腑に落ちる話だ。



このレトリックで言うと、お釈迦様がめざした涅槃は、貯金も借金もせずに「銀行口座を閉じること」。



善行・悪行により増減することのないアートマンを知ることで人はムニ(聖者)となり、ブラフマンの世界に到達する。業の貯金をプラスマイナスゼロとし、銀行口座を閉じることで輪廻の終焉である不死・解脱がもたらされる

『シャタパタ・ブラーフマナ』には、死後さらに繰り返し死ぬことを怖れる再死への恐怖が見られる




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