中沢新一を読むがオシャレだった頃(サンガジャパンVOL.10)
もう出て3か月も立つので、今さら間抜けなのだけれど、
新世代仏教雑誌『サンガジャパンVOL.10』(業特集)の
対談が面白かった。
といっても、表紙に出ていた大澤真幸×橋爪大三郎
(『ふしぎなキリスト教』のベストセラーコンビ)ではなくて、
・ 大田俊寛×山形浩生
「幻惑する知に抗するために
オウム・ポストモダン・死生観」
・ 石井光太×プラユキ・ナラテボー
「百通りの神様」
の2つの対談が、私は面白かった。組み合わせが秀逸だと思いましたし。
大田俊寛さん(’74年生まれの宗教学者、『オウム真理教の精神史』著者)と
山形浩生さん(’64年生まれの翻訳家)の対談は、
オカルト嫌いの人には胸がすっきりするのではないかしら。
お2人とも、一時期、中沢新一やなんかに傾倒したけれども
よく考えると、これって杜撰じゃん半分オカルトじゃん、
ということに気づいたと。
80年代に、中沢さんの『チベットのモーツァルト』とか、
ドゥルーズとかデリダなどが、わからないけどオシャレだった
あの空気感を説明するのは面倒くさいのですが、
ともかくイケてたわけなんです。
中沢さんは今また復活して、反原発などで人気みたいですね。
この対談での山形さんの発言で、言い得て妙だなと思ったのは――
世にある事象の8割方が近代的な理屈で説明できているのに、
15%ぐらい説明できないことが出てくると、
「例外的なケースにおけるものの見方を押し広げていって、
それで別のことを全部否定できるといった発想につながっていく」。
例外があると、西欧的合理主義やサイエンスでは説明できないよね、
やっぱ○○○だよね、といって卓袱台を全部ひっくり返したがるわけですね。
(○○○は、チベットでもアメリカ先住民でも波動でもアセンションでもいい)
この対談で山形さんが紹介していた
『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(アラン・ソーカル
ジャン・ブリクモン
著、2000年)が、とても面白そうだった。今年2月に、文庫になってた。さっそく読もうと思う。
立ち読みしたら「不明瞭なものが深遠とは限らない」という見出しがあって笑った。
==アマゾンからコピペ=================
『「知」の欺瞞』
科学をめぐるポストモダンの「言説」の一部が「当世流行馬鹿噺(ファッショナブル・ナンセンス)」に過ぎないことを示し、欧米で激論をよんだ告発の書。名立たる知識人の著述に見られる科学用語の明白な濫用の数々。人文系と社会科学にとって本当の敵は誰なのか? 著者らが目指すのは“サイエンス・ウォーズ”ではなく,科学と人文の間の真の対話である
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それから、石井光太さん(77年生まれ、世界の最も貧しい人たちなどをルポする写真家・ノンフィクション作家)とプラユキ・ナラテボーさん(62年生まれ、タイで副住職をつとめる日本人)は、現実を知っている人同士ならではの対談だった。
石井さんが、イスラムで売春している女性に、地獄に堕ちるのは怖くないの?と訊いた(イスラムでは売春すると地獄行き)ところ、「私のアッラーは許してくれると思う」という答えが返ってきて「一神教といっても、それを信仰する人一人ひとりの心の中にそれぞれの神様がいるのだと思った」という。
また、石井さんは「仏教はちょっと冷たい印象がある」と言う。ミャンマーでは障がい者や貧しい人を積極的に受け入れているのはキリスト教だと。ミャンマーでは仏教は体制派だし、仏教全体に一般化できないけど、という限定つきで。
でも、同様の指摘は、他の人からも聞いたことがある。それに対して、「いや、創始者の釈尊って人は社会改革に全然興味がありませんでね」とは、お坊さんとして言いにくかったりするのだろうか。
『サンガジャパン』は、仏教業界でない人の起用の仕方がとてもよいと思う。
「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

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