仏教からイスラム経への集団改宗? | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

仏教からイスラム経への集団改宗?

ムハンマドをおちょくったということで、イスラム教徒の怒りが燃え盛っているが、ムスリムの冗談の通じなさ具合は並大抵ではないですね。冗談が通じる度合いは宗教の種類で違うのだろうか? それとも、その宗教が信じられている地域の文化状況によるものだろうか?



インドでの仏教滅亡は、1203年に東インドの仏教寺院・ヴィクラマシラー寺院が侵攻してきたイスラム教徒に破壊されて・・・というのが、教科書的な説明であるようだ。

それで、イスラムは仏教の敵、というイメージがあったのだが、ことはそう単純ではないらしい。



『新アジア仏教史01 仏教出現の背景』(佼成出版)の第6章「イスラームとの共存」(By 保坂俊司先生)は、仏教とイスラムの関係を取り上げていて面白い。

『チャチュ・ナーマ』(7世紀のイスラム史料)には、「積極的にムスリム軍に協力する仏教徒たちが登場する」。これがイスラム側の記録だということを割り引いても、仏教は意外にも親イスラム的だった、というのが筆者の見立てだ。



※『チャチュ・ナーマ』

シュードラ出身の仏教徒が王であるラーイ王朝を、バラモン出身のチャチュ王が滅ぼす(622年頃)。チャチュ王が開いたバラモン王朝(630年頃~711)は、イスラム教徒のムハンド・カーシムの侵攻で滅びる(711年)。ラーイ王朝滅亡から、バラモン王朝滅亡までを記録したイスラム文書が『チャチュ・ナーマ』。『大唐西域記』と同時代――7世紀の仏教の姿が記録されている。『チャチュ・ナーマ』を、カタカナでググッても、今日時点で250件しかヒットしなかった。



『チャチュ・ナーマ』によると、8世紀にイスラム教のムハンド・カーシムが侵攻してきたときに、戦争をしようとするパジャハラ王(ヒンドゥー教)に、仏教僧が集まって「私たち仏教徒は殺生は許されない」といって降伏を勧める意見書を出す。それが受け入れられないと、仏教僧たちは「勝手に使者をイスラーム軍に送り」、「我々は貴方方に刃向かうものではありません」と伝えて、城門を開いて、イスラーム軍を迎え入れたと。



さらに、こんな記述もある。

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『チャチュ・ナーマ』にはイスラーム教へと仏教徒が集団改宗した事例が取り上げられている。



その町の長老的存在の仏教僧バンルカル・サーマニーが率先して(ブッダの)偶像寺院の中にモスクを建てて、イスラームの祈りを捧げた。そして、イマームの指示で宗教的な行いがなされた。

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この『チャチュ・ナーマ』という文献を初めて知った。

8世紀段階で、仏教とヒンズー教はすでに対立的な関係にあって、反ヒンドゥーの役割をイスラムに奪われたことが、仏教衰退の一因だと保坂俊司は書いている。



『チャチュ・ナーマ』も含めて、くわしいことは保坂俊司先生の『インド仏教はなぜ亡んだのか』に詳しいという。そのうち読もうっと。




インド仏教はなぜ亡んだのか―イスラム史料からの考察 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  




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