「業=カルマ」の2つの意味 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「業=カルマ」の2つの意味

『新アジア仏史01 仏教出現の背景』の、「第1章 ヒンドゥー世界の仏教」(奈良康明先生)のメモのつづき(青字は同書からの引用)。






※昨日のメモがキーボードミスで「奈良岡」(単語登録した知人名だ)になってて、コメントいただいて気づきました。恥ずかしー。




===============================

サーリプッタ(Sari女の息子)やモッガリプッタ(Moggali女の息子)のように「何某の女の息子」という名前を持っているが、これは母系社会の慣習であり、非アーリア系のおそらく「混血バラモン」であることを明らかに示している。



広い地域を支配するグループは自らをクシャトリャと称しつつ、アーリア社会に組み込まれていった。(中略)

釈尊のサーキャ族がクシャトリャだというのも、こうした経緯で理解される。最近の研究では、サーキャ族(釈迦族)もチベット・ビルマ系の人だったのではないか、という説が有力になっている

===============================




「チベット・ビルマ系」説の出典として(岩本裕1988、山崎元一2004、辛島昇1996)と書いてるあるので、どーっくの昔から提唱されていたわけだが、「有力な説」とは知らなんだ。



それから、上とは関係ないが、「業=カルマ」について。

オウムが「カルマ落とし」とか言っていたが、俗に「業=カルマ=前世の因縁」というイメージが強く、霊感商法の餌食になっちゃうことも少なくない。



==============================



業とはKamma(サンスクリット語はKarman)であるが、この語には基本的には二つの意味がある。

1)一つは「行為」である。

2)第二はその行為が後にまで何かの影響を及ぼす潜在的な力(業力)ないしそのはたらきである。


===============================



なので「原文理解には脈絡によって両者を弁別する必要がある」が、これが一筋縄ではいかないようで。現代語訳で「業」と訳されていても、どちらの意味か考えて読まないと怖いですねえ。







たとえば

生まれによってバラモンなのではない(ならざる者でもない)。業によってバラモンなのであり(ならざる者なのである)。業によっての農夫なのであり、業によって商人であり・・・業によって盗賊であり、業によって武士であり・・」(スッタニパータ650655)という有名なセリフは、

2)の意味をとると、「前世の業によって農夫等であることが定まっている」という意味に読めてしまう。


でも、この一連の偈頌(げじゅ)のすこし前(612619)では、「明らかに『耕作によって生活している者は農夫であってバラモンではない』と述べている」。つまり1)業=行為の意味で説かれている。

では行為=職業的行為かというと、そういうわけでもない。

悪を離れているからバラモンと言い、行いが寂かにやすまっているから沙門と言い~」(同388

生まれによって賎民なのではない。生まれによってバラモンなのではない。業によって賎民であり、業によってバラモンなのである」(同136

とあるように、「徳性」によって決まると。


現実の四姓制度を否定しているのではない。いや、四姓制度の存在を肯定したうえで、万人は同じ宗教理想を達成し得ることをいうのである」。



「業」といえば、

仏教雑誌『サンガジャパン VOL.10』の特集が「業」だった。

冒頭でスマナサーラ長老のお話が載っていて、(すべてに納得したわけではないけど)、

ちゃんと上記の「<業>の2つの意味」が「1)行為 2)結果」と解説されていた。

長老いわく、「2)結果」は、過去のことで、もうどうしようもないのだから、グダグダ悩むのは時間のムダである。大事なのは「1)行為」だけであって、「では、次はどうしましょうか?」ということだけを考えよ、と言う。

これは実際の処世訓として、役に立つ。



問題は、「次、どうするか」を選ぶ自由が、自分に与えられているか、ということ。

つまり「自由意志はあるのか」という問題で、これは古今東西の哲学者が頭を悩ませていろんなことを言ってきた分野だ。


『サンガジャパン VOL.10』でも、大澤真幸×橋爪代三郎の対談「ふしぎな仏教」で、そのへんのことをちゃんと取り上げている。

キリスト教の場合は、「神と自由意志は両立するか?」という話だけれど、仏教の場合は「因果論と自由意志は両立するか?」と。

網の目のような縁起=因果鉄道によって次の瞬間が決まるなら、自由な意志で「善きことをする」のは可能か? そういう意志を持つかどうかも含めて、過去の因果の積み重ねで決まってくるのではないか?



俗な例だけれど、私のように全身ユニクロでOKな人間が、いきなりエルメスの店に入っていくことは絶対になく、「自由意志」で入るのはせいぜいH&MかZARAの触れ幅しかない。フリーハンドの自由意志で突拍子もないことをする、というのは、経験上あり得ないような気がする。



同誌の対談の中で、橋爪さんは、「両立するわけのない因果と自由意志」を、「因果=主、自由意志=従」とウエイトづけしてるのが仏教で、「初発心=純粋自由意志みたいなもの」を認めているのが仏教だ、と言っておられる。

だけど、私がいきなりゾロアスター教に目覚めたりしないのと同様、純粋自由意志でいきなり仏道を目指したりするものだろうか?

こういう話は、古今東西の哲学者が喧々諤々やってるんでしょうけど。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

















(以下は同書の要約)