「本来の仏教」なんて実際どこかにあるの?
よく“本来の仏教”てなこと言い、それは“日本仏教はそうじゃない。ああ嘆かわしい”という文脈で発せられたりする。
かつては私も“本来の仏教”病にかかっていたのだが、いろいろ知るにつけ、一体それはどこに存在するんだ?と思えてきた。
阿含経に書いてあることを、いちおう“本来”と呼ぶとすると(それも現代人の恣意的な読み方によって作られた“本来”かもしれないけど)、現実にどこかの場所で“本来の仏教”が機能したことってあるのだろうか?
2年前に出た『新アジア仏教史』(全15巻、佼成出版社)の1巻『仏教出現の背景』の、第1章「ヒンドゥー世界の仏教」(奈良康明先生)を読んで、ますますそう思った。大乗仏教ではない国でも、けっこうぐじゃぐじゃになっていたんだなあ(以下、青字は同書からの引用)。
「正統の教理を自己都合で理解することは、仏教の社会定着の過程でしばしば行われてきたことである。仏教に限らず宗教信仰が民衆の間に定着するとき、種々の理由から本来の意義が改変されることはありえるものである」
◆インドで仏教が壊滅したあともベンガル地方で細々と続いた「ベンガル仏教徒」
(現在のバングラディシュ、チッタゴン)
以前、NHKスペシャルで「お釈迦さま時代の仏教がそのまま残っている村」みたいに取り上げられていて感動したが、コトはそんなに単純ではなかった。
中世にはヒンズー教と混じって、仏教徒なのに「生贄を捧げる儀礼まで行ったという」。
それを改革したのは、1858年にチッタゴンにやってきた仏教指導者・サーラメーダ比丘。それでも、現在のベンガル仏教とは・・・
「テーラヴァーダ仏教徒として伝統的な「涅槃」に関する教義は受け入れ、「無常・苦・無我」は折に触れて語られ、四諦八正道を信じる。しかし、現実の生活においてはこうした教理仏教はほとんど実践されることがない。(中略)
仏教の無我説は受容しつつも、現実には輪廻転生する主体として霊魂は認められ、理論的矛盾をかかえたままに、教理と民俗信仰は両立している。これは他のテーラヴァーダ仏教諸国の事情と同様である。
古代インドから伝承されているパリッタ(護呪)という呪句も普通に唱えられている。(仏教は合理的な教えで呪術は認めないというが)しかし、著者の調査した仏教徒村の長老は、「子供が重い病気になり、治らないときは祈祷儀礼をせざるを得ない。その時には<大乗仏教でやる>のだ」と答えた。」
◆ミャンマー
「ミャンマーの一部では四諦説を独自に理解している。(中略)<人生には苦がある・その苦は貧困等である・それが滅せられると苦もまた滅する・それは今すぐ期待できないから、死後に良き世界に生まれ変わるよう現世に功徳を積まなければならない。それが道の実践である>。ここには四諦の本来の宗教性は完全に失われている」
◆ ネオブディスト
(20世紀にインドで、仏教再興運動をしたアンベードガルと、改宗して仏教徒になった主に不可触賤民の人たち)
不可触賤民の差別撤廃という政治的・社会的な目的がメインであって、仏教の観点からは批判もある。(アンベードガルの主著『ブッダとそのダンマ』は光文社新書で出ていて、読んだときに奇妙な感じがした)
アンベードガルの解釈では
<例えばブッダの出家は従来いわれているように老病死に悩んだからではない。隣国のコーリヤ族と水争いがあり、非戦論を主張したが入れられず、出家せざるを得なかったものだという>
その他にも、<苦を貧困として説いている><涅槃は(肉体の死とは関係なく)もっと生き生きとして生活の中にある。社会的実践に託して涅槃を説いている>
などなど、「不可触賤民の社会的向上に都合の悪い部分は改変してしまった」
この奈良先生の文章はとっても勉強になったので、続きは後日。