涅槃も幻のごときもの(『八千頌般若経』その3) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

涅槃も幻のごときもの(『八千頌般若経』その3)

現代語訳『八千頌(じゅ)般若経』(中公文庫・梶山雄一訳)
第1巻メモの続き。

完全なる自分用の抜書きなので、サービス精神ゼロです。
紙のノートをすぐどこかになくす人間にとって
ブログはPCが壊れてもなくならずあとで検索できるから楽なんですよね。


『八千頌般若経』は初期大乗仏典で、
空、大乗、菩薩といった大乗ワードがばっちり出てくるとして人気のお経です。


般若経典は紀元前後から密教時代まで
次々に作られつづけ(その最後のほうが般若心経)、
それらを漢訳した集大成「大般若波羅蜜多経」(玄奘訳)は、
なんたることか、全600巻ですってよ!

いったい何を、そんなに書くことがあったのか?

『八千頌般若経』だけでも繰り返しにつぐ繰り返しなのに、
600巻だとどれだけ繰り返しなのか。


口頭伝承なら、忘れないように何度も繰り返すのはわかる。
けど、書写(写経)を激しく推奨する『八千頌般若経』が、
同じフレーズを何十回何百回と書くのは、
コピペもない時代にあってさぞかし苦行だった気もして、
それ自体が修行だからあえて長~くしているのか?
口頭ベースの阿含経がかなり長いので、
短いと見劣りがするから長くしたのか?


いろいろと勝手な想像は尽きないのでした。


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◆知恵の完成

世尊よ、物質的存在を取得せず、同様に感覚、表象、意欲を、
そして思惟を取得しないこと、それが菩薩大士の知恵の完成である、
と知らねばなりません。等々

いかなるものをも追求しないならば、
知恵の完成への道を追求しているのである(P271)


◆涅槃も幻のごときもの

スプーティは言った。
「神々よ、涅槃も幻のごとく、夢のごときものである、
と私はいいます。まして、そのほかのものはいうまでもありません」P62

(これは聞き捨てならない大事なフレーズ・・)



◆大乗とは

「世尊よ、大乗とはいったい何ですか」
「スプーティよ、大乗とは量られないものの異名である」

「世尊よ、その大乗は、虚空と等しく、きわめて広大で
あるために、神々、人間、阿修羅を含んだこの世間を
超克していくものなのです。
ちょうど虚空には無量、無数の有情を入れる余地があるように、
この乗り物には無量、無数の有情を入れる余地があります。
これはこういう仕方で菩薩大士たちにとっての
大きな乗り物なのです」
「善いかな善いかなスプーティよ、そのとおりである」


◆空

「世尊よ、仏陀というものは名前だけのものにすぎません。
菩薩というものは名前だけのものにすぎません。
知恵の完成というものも名前だけのものにすぎません。
そしてその名前さえも生起し(存在し)ているものではありません」


◆認識に執着するな

認識に執着するものには(真の)廻向はありえないのである。
認識は有毒なものだからである。


◆不生不滅、不去不来(よくわからない・・)

世尊はスブーティ長老に仰せられた。
「菩薩乗によって修行する人が、もし過去・未来・現在の
諸事物を把握せず、考えず、認識せず、思いはからず、想像せず、
見ず、認めないで、しかもこれらの事物をつぎのように考察
するとしよう。
『すべてのものは思惟の所産であり、生じたものでもなく
滅するものでもない。去ることもなく、来ることもない。』(略)」
P196


◆菩薩の利他行とは

シャーリプトラ長老はスプーティ長老にこう言った。
「もし菩薩も生じないものであるならば、
どうして菩薩は行いがたい修行を追求するのですか。
あるいは有情のために多くの苦しみを受けることに耐えるのですか」
「シャーリプトラよ、私が菩薩大士に行い難い修行をするように
期待しているのではありません。
また、(みずから)苦行だと思いながら追求するようなものは
菩薩大士ではないのです。
それはなぜかというと、苦行だという思いを生じたならば、
無量、無数の有情たちの利益をはかることなどできないからです。
むしろ楽しいという思いを生じてこそ(それはできるの)です。
P43-44

ですから菩薩大士はすべての有情について、母の思い、
父の思い、息子の思い、娘の思いを生じ、
さらに「(自分と同じように)すべての有情も、
あらゆる方法であらゆる場合に、すべての苦しみから
解き放たれねばならない」と考えて、
有情は自分自身だという思いを生じなければなりません。

またすべての有情のことをつぎのように考えねばなりません。
「私はこれらすべての有情を捨ててはならない。
私はこれらすべての有情を無量の苦しみの集まりから
解き放たねばならない。
また、私は百回まで切り刻まれても、
彼らに対して悪心をいだいてはならない」と」。


◆さとりに至れる人は少ししかいない

(世尊は神々の主シャクラに次のように仰せられた)
「カウシカよ、さとりへの道を追求している無量、無数の
有情のなかでも、ひとりふたりだけが不退転の菩薩の
階位に立つことであろう。
それはなぜかというと、カウシカよ、無上にして完全なさとりは、
努力の足りない人々、怠惰な小人たち、心低く、意識低く、
傾倒心(信解)の少ない人々、知恵の劣った人々によっては
達成されがたいからである。」 P90


◆六波羅蜜の中で般若波羅蜜だけが特別

(世尊は仰せられた)
「私はただ知恵の完成だけについて、それを称賛し、
その名前を宣べるが、それ以外の完成(波羅蜜)については
そうしない。それはなぜかというと、アーナンダよ、
知恵の完成は、(他の5つの完成に先立つものだからである)」


※六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)のなかで
般若波羅蜜が他に先立つ、ということ
”生まれつき盲目の人が、導き手なしに村や都にたどりつけない
ように、知恵の完成の導きなくしては他の五波羅蜜は
どこにも到達できない”P207



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