「あるべき本来の仏教/堕落した現実の仏教」という図式の無力さ
『シリーズ大乗仏教3 大乗仏教の実践』(春秋社)を読み終わった。
これがまた、めくるめくような面白さだったのだが、
まずは末木文美士先生による第1章「大乗仏教の実践」のメモ。
================================
これまでの仏教研究は、経典や論書に基づいて「あるべき本来の仏教」を
できるだけ理想的な形で描き出すのが、その課題であり、
それに対して、現実の仏教は「あるべき本来の仏教」の堕落形態であり、
研究に値しないと考えられてきた。
それが近年、急速に大きな研究課題として浮上してきている。
=================================
研究者でもない私が言うのもおこがましいけれど、これはとっても耳が痛い話だ。
「あるべき本来の仏教/現実の堕落した仏教」という図式は、
仏教書から素人ブログに至るまで、お馴染みのものだ。
でも、その図式は違うんじゃないの?
「あるべき本来の仏教」なんてキレイゴトじゃないの?という激しい問題提起が、
主にアメリカの研究者からなされているという。
”仏教研究者に衝撃を与えた”らしい、いくつかの文献が
紹介されていて、めちゃくちゃ面白そうなのだが、
どれも邦訳が出ていない! くやしい!
英文で読んでみようかなあ、でも絶対わかんないな。
いつか邦訳されたときのために、メモしておこう。
春秋社さん、どうか邦訳おねがいしますよ。
(以下、末木先生の解説を引用)
===============================
『ブッダのキュレーターたち ~植民地主義下の仏教研究~』
Curators of the Buddha (1995、ドナルド・ロペス編)
『仏教研究のための批判的用語集』(2005、ドナルド・ロペス編)
Critical Terms For The Study Of Buddhism (Buddhism & Moder?nity)
このような批判的な仏教研究の成果の一つのまとめであるとともに
今後踏まえるべき基準を明らかにしている。
同書は、仏教特有の術語ではなく、美術・死・経済・贈与・制度など、
一般的な用語を取り上げて、常識化した仏教観を批判している。
その仏教観というのは、
「仏教はキリスト教に優越する世界宗教である」とか、
「仏教は苦悩を終焉させる理性的宗教である」とか、
「仏教は倫理的で、非暴力的である」というような理想化された仏教観である。
ロペスらは、きれいごとで飾られた理念としての仏教観を批判し、
仏教の実態を見据えた研究を提唱している。
『仏教の仮面を剥ぐ』(ベルナール・フォール、2009)
Unmasking Buddhism (Bernard Faure )
フォールは、ロペスなどよりもさらにラディカルに仏教の
「あるべき」理想主義を批判し、仏教の脱構築をはかっている。
これまで「仏教はこれこれである」という本質規定によって
捉えられるものと考えられてきているが、
そのような本質規定が成り立つのかと問い、
それを一々批判するという手順が取られている。
例えば「あらゆる仏教徒は悟りに達することを求めている」
「仏教はあらゆるものの無常を教える」「仏教は慈悲を教える」
「仏教は平和な宗教である」「仏教は我々がみな平等だということを認める」
「仏教は科学と相性がいい」「仏教は普遍主義的宗教である」等々。
どれも、どこかでお目にかかった仏教のスローガンである。
だが、本当にそうなのか、とフォールは問う。
================================
どこかでお目にかかったどころか、
私もそう思い込んでいたし、ブログでも「きれいごとで飾れらた仏教観」を
書き散らしてきたけれど、大バカ野郎だったのかもしれない。
これはなんとしてもフォールさんの本を読みたいものだ。(邦訳祈願!)
経典には「不殺生」と書いてあって、仏教は平和な宗教だと言われるが、
たとえば日本の仏教者は先の大戦に積極的に協力したし、
スリランカでは多数派の仏教徒が少数派のタミル人を武力で抑圧している。
「タテマエのきれいごと」が本来の仏教で、実態が堕落していると言うのは
たやすいけれど、実態を伴わない理想は無力だし、実態の都合の悪いところを
覆う隠れ蓑に使われかねない―ーと、末木先生は書いている。
この指摘は重い。
末木先生の著書『解体する言葉と世界―仏教からの挑戦』 (98年、岩波書店)
にはフォールさんの「The Rhetoric of Immediacy」についての書評が
載っているそうなので、まずはそれを読んでみることにしよう。

にほんブログ村