なぜ私たちはお互いに言葉が通じるのか | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

なぜ私たちはお互いに言葉が通じるのか

さて、これはなんでしょう?


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大多数の人は「牛」と答えるでしょうね。

でも3つは全然違うのに、なぜ「牛」で話が通じるのか? 不思議です。
逆に「牛」と聞いて思うものは、人によって3つのうちどれかはわからない。



ではこれは牛?


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大多数の人は、「牛ではない。牛コスプレをした変な人」と答えますね。
でも、なぜ上の3つが牛で、4つ目が牛でないと判断するのか?


つまり「言葉によって、いかにして普遍の認識が可能になるのか」。
この問題は、古来、いろいろな天才たちが頭を悩ませてきた。


私たちの頭の中には、「牛の本質」のようなアイデア、
純然たる「牛性」という原型がなければ判断できないように思える。
「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」を設定した
プラトンの「イデア」は、そういうことなんでしょうか、よく知らないけれども。


ところが、インドの陳那(じんな、ディグナーガ、480年頃-540年頃)は、
普遍的な「牛の本質」などない、という説を立てたそうだ。
「牛性」がなければ、どうやって「牛」と判断するのか?
それは、いわば「引き算」の重ね合わせだというのだ。(『知識論集成』)
アポーハ説」という可愛い響きの説である。


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(ディグナーガは)対象にそなわった普遍によるのではなくて、
語が他のものを排除することによると主張した。


「角をもつ」「喉袋を持つ」などの個別の条件を満たさないものの
排除をさらに重ね合わせていけば、「牛性」という単一の普遍を前提せずに
対象を語「牛」の意味となる閉じた領域に囲い込むのを完了することができる。


『シリーズ大乗仏典2 』(春秋社)
「8章 中世初期における仏教思想の再形成」吉永清孝著
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つまり「角があるから馬じゃない」「喉袋があるからパンダじゃない」
「4本足だから、牛コスプレの人間じゃない」といった形で、
排除を重ね合わせていく。

ディグナーガさん、面白い! 引き算という手があったか。


ただ、後にヒンドゥー教系のクマーリラ(600年前後の数十年)さんは、
論駁を試みたとか。
「馬じゃない」といったときに「馬」もまた排除の積み重ねなら、
参照先がまた参照でエクセルが発狂するような循環関係になってしまう。
だから「牛」という言葉は本質的・普遍的な「牛性」を示している、と。


私にはどちらが正しいのかわからないけれど、
これが仏教と一体何の関係があるのか?というのが、また面白い。

ディグナーガは、一般に、唯識思想に基づいて仏教論理学を打ちたてた、
と解説される。
縁起を説く仏教で、しかも唯識となれば、
対象が「本質的、普遍的」なものを内在するなど、認めるわけにはいかない。


一方で、バラモンーヒンドゥー的な立場からいえば、
ヴェーダを構成する「言語」は本質的で普遍的でなければならない。
ということで、言語論が思想に直結する・・・という解釈でいいんですかね?


それにしても、大昔のギリシャやインドには、恐るべき哲学者がいたものだ。

その哲学DNAは、いまどうなっているのだろうか。


そして、私たちが言葉を使って気楽におしゃべりなどしているのは

いったいどういう事態なのか。

「牛」でさえよくわからないのに、「友」だ「愛」だ「真理」だと言い合って

わかりあったことにしているのは、かなり狂った所業だろう。


『シリーズ大乗仏典2』8章は、
他にも興味深いことがたくさん書いてあったので、また後日。




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