阿弥陀と空とトランス状態(大乗仏教の誕生7章)
初期仏典とかなり違う大乗仏典だけれど、
大乗仏典を書いた人はどうやって思いついたんだろう?
たとえば阿弥陀仏とか観音菩薩のような架空存在のシーンを
まるで見てきたかのように書くのは、
小説を書くみたいにせっせと空想をふくらませたのだろうか?
などと、常々不思議に思っていた。
そしたら『シリーズ大乗仏教2 大乗仏教の誕生』
第7章「ヒンドゥー教と大乗仏教」(赤松明彦著)の中に、
面白いことが書いてあった。
諸氏の研究成果を引きながら、
「大乗仏教の教理(学説)は、瞑想体験(禅定によって得た体験)
に基づいてつくりだされたものである」。
瞑想による一種のトランス状態のなかで、
リアルに阿弥陀を見たり、「あ、ぜんぶ空だ」と実感したり、
そういう体感的リアリティが基になっている、という見方だ。
なるほどなあ。
まじめに瞑想したことがないので、そういう観点は全然気づかなかった。
この第7章では、「般舟三昧経 はんじゅざんまいきょう」
(1世紀頃、阿弥陀信仰と空の思想が見られる最初期の大乗仏典のひとつ)
を取り上げている。
以下は同書からの備忘メモなので、文章になってません。
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般舟三昧 (サンスクリット語
プラテュトパンナ・ブッダ・サンムカーヴァスティタ・サマーディ
pratyutpanna-buddha-saſmukhāvasthita-samādhi)
=<現在の仏陀の(あるいは「が」)面前に立つ者の三昧>という意味
=修行者が阿弥陀仏の前に立っている状態(脱魂型のトランス状態)
あるいは
修行者の前に阿弥陀仏が立っている状態(憑依型のトランス状態)
般舟三昧という瞑想の状態を7つの比喩で説明しているが、
そのうち5つは夢の中の経験を喩えとしている。
(夢で見たものが現実のように思い出されたり、
夢で見た遊女で性欲が満たされたり、夢の中で満腹になったりする。
7昼夜の瞑想のあと、現実のようにありありと阿弥陀仏を見る)
↓
夢の喩えから、
「三界唯心」(現実は心の働きが生み出したものにすぎない)という
初期大乗仏教の教理を結論づける。
「日々の瞑想修行の中で得られたヴィジョンは、夢の中での経験と同様に、
まさに意識だけによって生み出されたリアリティであり得る。
そこでの認識は、身体性を超越しているがゆえに、
より高次のいわば真の現実についての認識として受け入れられる」。
「すべては心の働きが生み出したもの」という思想は
「アーガマ・シャーストラ」(初期ヴェーダーンタ学派の論書)にも見られる。
夢の中の状態であっても、目覚めている状態であっても、非ー実であって
「光輝であるアートマンが、自らのマーヤー(幻惑)の力を使って、
自己を想像=創造するのである。彼こそが[現象界の]区別を知るというのが、
ヴェーダーンタ学派の結論である」
初期大乗仏教と初期ヒンドゥー教に共通する。
「インド思想史の中で、存在論が意識論へと転換した」。