仏は言ってないけど仏説です。という根拠 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

仏は言ってないけど仏説です。という根拠


このところ『シリーズ大乗仏教』(春秋社)を読んでいて、
めちゃくちゃ面白く、後のためにメモったりしているけれど
(ブログは後で検索できるからメモとして便利なのです)
人が読んでわかるように書くのがめんどくさくなってきた。

以下は、ただメモと引用なのでスルーしてください。


大乗仏典を読んでトンデモに見えるものでも、
いやこれは仏説である、と堂々と主張されていて、
初期仏典と違うと「あれは方便でした」で乗り切るのは
どういう正当性があるんでしょうか?
と疑問に思っていたことに対する部分。


伝統的な学派が「大乗は仏説じゃない。デッチあげた」と批判したら、
大乗側は「いや、おたくらがアビダルマは仏説だと
主張した理屈をそのまま返しますよ」といって
めんどうくさいことになった、というお話。

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「アビダルマは仏説である」と主張する部派仏教者、
とくに説一切有部正統派毘葉婆沙師の論理は、
阿含や律に見える以下の三つの原理に還元できる。


1)仏説の判定基準は、「経に入り、律に見られ、法性に適う」
という「大般涅槃経」の文言である。
とくに「法性に適う」という点は、「たとえ仏その人の説でなくても」
との前提の上に立つことができる点で重要である。


2)仏説の多くは隠没している。
 (それを阿羅漢は願智によって回復させることができる


3)経には文字通りに受け取ってよい説(了義)と、
  そうではなくて裏の意味(密意)の込められた説(未了義)とがある。


これらを組み合わせて、「現存する聖典に見られない理論であっても
法性に適うから仏説であり、隠没した経の中に説かれていた。
自説とっ矛盾した聖典の語は、裏の意味である」、として説明し切ることが
できれば、自己の信じる新説を仏説として正当化することができるのである。


※ただし、(1)は、阿含では有部系「大般涅槃経」の梵本と
チベット訳にはあるが、漢訳にはないなど、
もしかして、この理論がやや後代のものである可能性がある。
(これの反証となる用例もある)


『シリーズ大乗仏教2 大乗仏教の誕生』(春秋社)
6章「アビダルマ仏教と大乗仏教ー仏説論を中心に」本床良文著
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大乗仏教の誕生 (シリーズ大乗仏教)



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