「成仏は予約制」というおかしな物語 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「成仏は予約制」というおかしな物語

前に行った、大原・三千院のお坊さんが、
「極楽は予約制です。予約すれば必ず行けます」といって、
観光客の笑いを取っていた。

極楽と成仏は違うんだけど、
日本ではごっちゃになっているので、お坊さんは
「成仏は予約制です」と同じ意味で言っていた。


成仏予約制、これが「授記」ってやつですよね?


仏に会って「私は必ず仏になろう」と誓いを立てて、
仏が「汝は将来仏になる」という保証をする。

お釈迦さまは、何のあてもなく出家したはずだけど、神格化される過程で、
「過去世で燃灯仏(ディーパンカラ)に会って予約した」
という物語ができました。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


「弥勒菩薩・禅定仏・燃燈仏本生」(アフガン3C)。東京国立博物館で見た。

一番下の、ひざまづいて髪の毛を地面に敷いてるのが
遥か過去世のお釈迦さま、スメーダ。



ところが、お釈迦さまが死んで、

修行者が予約する相手=仏がいなくなってしまった。
残された修行者たちは、誓う相手・保証してくれる相手がいないと
仏になれない!とパニック状態になり、
そうだ、世界がたくさんあって仏がたくさんいればいいんだ、
ということで、三千大世界に阿閦仏や阿弥陀仏といった
たくさんの仏がいる、と考えるようになった。


「プレイガイド」が(仮に)倒産しちゃったから、予約を取るためには
「チケットぴあ」とか「Loppi」をバンバン創設しよう、みたいな話?


授記こそが大乗が成立する核心であったと言えるのである
(『シリーズ大乗仏教Ⅱ 大乗仏教の誕生』
 「大乗仏教における法滅と授記の役割」渡辺章悟著)


菩薩がすごいとされるのも、授記思想とおおいに関係がある。


授記を得た後の釈尊は、すでに成仏が確定していながら、
自覚的に菩提を求めて努力する。そのような位置づけにある者を、
他の修行者と区別して、<菩提を求める人>すなわち<菩薩>と
呼ぶようになったというわけである

(同上)


つまり菩薩は、如来席の予約が取れているのに、あえてならない人。
善行のマイルがやっと貯まって、エアチケットの予約も取れて、
南の島でノンビリできるにもかかわらず、
飛行機に乗らずに被災地でボランティアしてるような人なのだ。

そりゃあ菩薩の人気が出るのも当然だ。


そこで疑問なのは、
なぜ人々は、授記=成仏保証、という物語を必要としたのか。
修行したけどムダだった、というリスクが嫌だったのかしら?

仏に会って誓いを立てたあと、もし挫折して酒池肉林に溺れてしまったら、
仏は「<汝は仏になる>と授記したのは取り消し」という、
予約取り消し処分はあるのか?
でも取り消したら如来の権威は失墜するわけで、授記っておかしな物語だなあ。


以下は、同書からの備忘メモ。


過去仏としての燃灯仏は、古い伝統にあった過去仏とは関係なく、
新たに成立した仏である。 (中略)
この燃灯仏授記には2つの流れがあり、
上座部系では業報授記、大衆部系においては誓願授記という形がある。
前者はディヴィヤ・アヴァダーナおよび六度集経によって代表され、
後者は増一阿含及び大事によって代表される。
そして、この両者は仏本行集経において融合され、
大乗の菩薩思想の成立に大きな影響を与えたという


燃灯仏授記は多くの大乗仏典に反映される。
・最初は後漢の支婁迦讖 ( しるかしん ) 訳の「阿閦仏国経」や
「道行般若経」に
・初期大乗の代表的経典「八千頌般若経」(2章末尾、19章末尾)
・「金剛般若経」(10a節、16b節、17b節)

(同上)


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