人には核があるのかどうか | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

人には核があるのかどうか

シリーズ大乗仏教 1巻 大乗仏教とは何か』(監修:高崎直道、春秋社)を読み終わった。

大乗でなくて、いわゆる初期仏教に興味がある人にとっても、かなり面白いと思う。


たとえば「第8章 インド仏教史における大乗仏教ー無と有との対論」(by桂紹隆・龍谷大学大学院教授)。


仏教では「無我」だけど「輪廻」もあると説いていて、じゃあ何が輪廻するの?という、2000年ぐらい議論してもクリアな結論が出ない鬱陶しい問題がある。


この第8章では、部派仏教の犢子部(とくしぶ)が主張したプドガラ(人格主体)に

始まり、大乗仏教のアラヤ識、如来蔵・仏性まで、なにか人格の「核」みたいなものを取り上げている。
仏教は、そういった「核」みたいなものを認めたのかどうか。

お釈迦さまは「無我」で「縁起」だと言ったのだから、
そんな核を認めたら仏教じゃないだろう、と思うでしょ?
ところが、そう話は単純ではないらしいのだ。

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「無我」の原語「アナッタン/アナートマン」(パーリ語 anattan/サンスクリット語 anatman)は、「アートマンを持たない」(無我)とも「アートマンではない」(非我)とも

解釈可能である。


後者の解釈を採用すると、ブッダは「Xはアートマンではない」と言っても、アートマンそのものは否定しなかった、ということになり、ブッダはウパニシャッドの説くアートマンを認めていたという理解や、それを認めなくても「本来の自己/真実の自己」を追究することをブッダは説いたという理解になる。


これに対して、前者の解釈を採用すると、これまでしばしば言及した如何なる意味でもアートマンの存在を認めない「厳格な無我説」に導かれることになる。


日本を代表するインド哲学者であった中村元は「非我説」をとり、ブッダがウパニシャッドのアートマンは否定したが、

「真実の自己」としてのアートマンの存在は認めていたと主張した。


(同書より)

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やっぱりそうだったのか・・・。
『ミリンダ王の問い』(東洋文庫)の、すごく昔の版の解説で、中村元先生が「真実の自己」と書いていて、えーっそう
なの?と思ったのだが、

いまもこの議論は生きているのか。


さらに同書では
第3の解釈「ブッダはウパニシャッドのアートマンを否定しなかった」という立場として宮元啓一氏を挙げ、
第4の解釈「ブッダは<アートマンがあるでもなく、ないでもない>という無記、言わない」という立場を挙げる(筆者
の桂さんはこの立場だそう)。


驚くべきことだけれど、「無我」(非我)という超基本的なことでも、
お釈迦さまが何を言ったかどうか、まだ決着がついてないんですかねー。


アートマンでもプドガラでもアラヤ識でも如来蔵でも「本当の私」でもいいのだけれど、なんか中心、核、主体があるという世界観(適当にイソギンチャクとする)と、
なんにもないという世界観(適当にナマコとする)では、
根本的に世界把握のモデルが違うような気がする。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

で、たぶん人はイソギンチャクモデルのほうが好きだ。落ち着く。

お釈迦さまはどっちのモデルをとったのか?
って本当にまだ決着がついてないの?


人生を賭して四六時中、研究をしている仏教学の権威の方々でも
意見が分かれているのなら、「どっちの解釈が正しいか」など
私にわかるわけはない。


なので、シロウトたる私は、ナマコモデルを採用することにする。
そのほうが人生に役立つし、そのほうがずっと面白いから。





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