最澄さんの猛烈な自己批判「願文」(南直哉さん「仏教わたくし流」) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

最澄さんの猛烈な自己批判「願文」(南直哉さん「仏教わたくし流」)

3月30日、禅僧・南直哉さんの月イチ講座
「仏教わたくし流 パートⅡ」を拝聴してきた。


いよいよ佳境に入ってきたというべきか、
この日のお題は「日本仏教の黎明期」として最澄さんのお話。

私は子供の頃に延暦寺に泊まったことがあるせいか、
空海より最澄のほうが身近に感じるのだけれど、
一般にはあんまり馴染みはないのかもしれない。


最澄が日本の仏教の方向性を決定付けた、というのは
たぶん一般的にもそう評価されていると思う。

決定付けた中身もいろいろあるのだけれど、
ここでは「大乗戒」のことだけメモしておこう。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ 最澄さん。


世界中で仏教の出家者は具足戒(「四分律」によれば僧250戒、尼348戒)
というコト細かな戒を守ることになっている。
伝統仏教の具足戒を大乗仏教でも使っているわけだ。

ところが、日本だけは「大乗戒」という、かなりユルくて簡易な戒でいい。
これを考案して、国家に認めさせたのが、最澄なのだ。
(認められたのは最澄の死後7日目)


と、ここまでの基礎知識は私も知っていた。

でも、なんで戒をユルくしてしまったんだろう?という疑問があった。
ていうか、最澄さん、余計なことをしたんじゃないの?という疑問。

今でも日本のお坊さんは普通に妻子がいて普通に酒を飲んで、
袈裟を脱げば単に髪のないそのへんのオジサンのようでもあり、
歴史的に見ても風紀はユルユルのようだ。お坊さんのありがたみがない。


最澄以前は、日本もいちおうは鑑真さんに頼んで具足戒を輸入して
東大寺戒壇院など3つの戒壇で正式な受戒をしていた。
その具足戒を破棄しちゃった最澄さんは、
日本ユルユル仏教の土台を作ったことにもなる。


今回、南さんが強調していたことで、なるほど!と思ったのは、
最澄が19歳の時に書いた「願文」の中の「無戒」という一言だ。


この「願文」が、なんとも強烈で切ない文章なのだ。
最澄は19歳のとき、東大寺で正式な具足戒を受戒して、
そのままいけば官僧として順調に出世できたと思う。

ところが受戒した途端に、比叡山に庵をかまえて篭ってしまうのだが、
そのときに立てた誓いが「願文」である。

これが、ものすごい自己批判の文章なのだ。

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是に於いて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、
上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕く。


(現代語訳)

愚かな中でももっとも愚か、狂った中でももっとも狂い、
髪を剃っただけで煩悩まみれの人である最低の最澄は、
上は諸仏に逆らい、中は天皇の法に背き、下は孝礼を欠いている。


(現代語訳は末木文美士著『仏典をよむ』より)
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僧としても人間としても、オレはまるっきりダメ人間、といって
山に篭ってしまうのだ。

この『願文』の中に

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伏して己が行迹を尋ね思うに、無戒にして窃かに四事の労を受け、
愚痴にして亦四生の怨と成る。
=================================

という文章がある。
具足戒を受けた直後に、自分は「無戒」で、真理を知らずに愚かで、
衣食などを供養され、生き物に迷惑をかけて、のうのうと生きている、と。

南さんは、すでに具足戒がかなり形骸化していたのではないか、
そうじゃなきゃ受戒したのに「無戒」なんて書かない、という。

なるほど。誰も守らない形だけの具足戒ではなくて、
実効性のある自主ルール「大乗戒」でいこう、と最澄は考えたのかもしれない。


だとすれば、大乗戒でユルくなったのではなくて、
もとから日本で戒は機能してなかったのかもしれない。

南さんいわく、「願文」に見る、自己のありようへの猛烈な反省は、
日本の仏教史上で、もっとも古い仏教者の激白だという。
だから文字記録で見るかぎり、最初の仏教者は最澄である、と。


最澄と徳一(法相宗)の間の「三乗一乗論争」も有名だ。
それらのもろもろは、最澄さんの「誰でも仏になれるはずだ」という
信念から発してして、これも日本仏教の基盤になった思想なのだが、
結果的に「ありのままで仏」というグズグズな現状肯定に
行き着いてしまった感もある。


民主主義の洗礼を受けた私たちにとって、
「誰でも仏になれる」は自然だし耳ざわりがいい。
でも、なぜ大昔から大乗仏教にはそういう傾向があるのだろう?
やっぱインドで異民族がたくさんいる中で
「誰でも」思想がでてきたのかな?


あー、異常に長くなってしまった。しかし最澄さんの人生は壮絶だし切ない。
、『仏典をよむ』(末木文美士著、新潮社)の
第8章・最澄の項は、南さん同様「日本仏教は最澄から始まる」という
位置づけでコンパクトに書かれていますので、お勧めです。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

仏典をよむ―死からはじまる仏教史


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