死にゆく人にかける言葉(長部17大善見王経)
遅々としてすすまない初期仏典再読、本日は
長部第17経「大善見王経」(マハースダッサナ王の最期)。
お釈迦さまはクシナーラーで亡くなりますが、
アーナンダが「こんなところで死なないで」と嘆くほどに
ショボい場所であったようです。
おそらく、お釈迦さまを神格化していく過程で、
そんなショボ地で亡くなったことを正当化する必要が
あったのでしょう、
この「大善見王経」はお釈迦さまの過去世である
マハースダッサナ王がクシナーラーで亡くなったことが
述べられています。
お釈迦さまは過去世で、6回もクシナーラーで亡くなって、
今度は7回目で最後である、ということになっています。
マハースダッサナ王は大変に優れた王で、
8万4000の都を支配して巨万の富を築いた設定なのですが、
そんな王でもやっぱり死んでしまうわけで、
死期を感じた王妃はやっぱり嘆き悲しみます。
(以下、青字は、『原始仏典 長部経典Ⅱ』春秋社、訳:入山淳子)
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アーナンダよ、スバッダー王妃は次のように考えた。
「マハースダッサナ王は決して最期を迎えませんように」
マハースダッサナ王に次のように言った。
「王よ、クサーヴァティー都をはじめとする八万四千の都は
いまやあなたのものなのですから、
王よ、これらに対して欲望を生み出してください。
生存に愛着を感じてください」。
このように言われて、
マハースダッサナ王は、王妃に、
「そなたは長い間私に、願わしく愛しくこころよい言葉で
語りかけてきたが、最後のときになって、
願わしくなく、愛しくなく、心よくないことばで語りかけている」と。
ではどういう言葉を語りかけたらいいか?と王妃は聞きます。
「王妃よ、このようにわたしに対してそなたは語り掛けなさい。
<王よ、あらゆる快い、喜ばしいことには、
別異、別離、変化があります。
あなたは、王よ、愛着の心を抱いたまま、
最期を迎えることのありませんように。
愛着を抱くなら死は苦であり、
また愛着を抱くなら死は非難されるものとなります>」
王にこういわれて、王妃は涙をぬぐって、
王のいうとおりに言葉をかけます。
8万4000の都はあなたのものですが、
「王よ、これに対して欲望をお捨てください。
生存に愛着なさいませんように」。
8万4000の宮殿、8万4000の象、8万4000の婦人・・・
莫大な富にたいして「欲望をお捨てください。
生存に愛着なさいませんように」と。
やがて王は死んで、梵天に転生します。
「見よ、アーナンダよ、それらの作り出されるものは
なべて過ぎてゆき、滅び、変転する。
アーナンダよ、このようにもろもろの作り出されるものは
堅固ならず、慰めをもたらさない。
これほどに、アーナンダよ、すべての作り出されるものは
厭離すべきであり、離欲すべきであり、解脱すべきである」
「なんと、もろもろの作り出されるものは常なることなく、
生と滅という性質を具え、生じては滅びる。
それらの寂滅が楽である」
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大事な人が死にかけていたら、
「死なないで!」と言ってしまうのが人情ですが、
それは間違っている、とお釈迦さまは説くわけです。
言葉をかけるなら「生への未練(愛着)を捨ててください」
と言うべきだ、と(実際に言ったらドン引きされるでしょうが)。
なぜなら、「愛着を抱くから、死は苦」なのだから。
逆にいえば、愛着がなければ、死は苦しみではない。
死そのものは、苦でも悲しむべきことでもない。
死でさえ苦でないなら、失恋も敗北もリストラも老化も、
どうでもいい話だ。愛着さえなくせばね。
仏教の、このアクロバティックな救済は、すごいなあ。
「無常」や「愛着を捨てよ」はお馴染みの教えのはずなのに、
いろいろな表現で読む・聞くたびにハッ!とするのは
まだ身に染み付いていないからでしょうね・・。

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