奈良時代のハコモノ仏教(南直哉さん講座)
月1回の楽しみ、禅僧・南直哉さんの高座じゃなくて講座
「仏教・私流(partⅢ)」の第4回が1月30日にあった。
今回のテーマは「律令体制下の仏教(奈良期)
=聖徳太子以後、最澄以前」。
いやー驚いた。
奈良のお寺・仏像はでっかくて好きなのだけど、
奈良時代の日本仏教の内実は、ダメダメだったんですね。
以下、ちょっとだけメモ。
日本は外交的な必要性から仏教を輸入して、
国家を護ることを仏教に期待していた、
僧尼はいわば公務員だった・・という程度は知っていた。
けれど今日の講義を聞いて、
国家が仏教を、ここまでがんじがらめに管理していたのかと、
なんだか泣けてきましたよ。
僧尼の活動も、法律でガチガチに決められている。
たとえば、「養老令」の中に27条ある「僧尼令」を見ると、
僧尼は吉凶を占ってはダメ、国家のことを語ってはダメ、
百姓を妖惑してはダメ、寺の外で人々を教化してもダメ、
乞食(托鉢)修行もダメ、許可なく山林で修行してもダメ、
俗人に経典や仏像を与えて教化してもダメ。
この規則を破ったら、僧の資格剥奪(還俗)や
苦役を数十~100日などの罰則が書かれている。
また僧衣の色も決められてるし、
道で朝廷高官に会った場合は三位以上なら隠れよ、
五位以上なら馬を下りて会釈せよ、なんてことまで書いてある。
修行も教化もダメ、となったら、坊さんは何をすればいいの?
寺にこもって、ひたすら、国家推奨のお経を覚えたり
教学をいじくるしか、やることがないだろう。
また、唐からいろいろな教学(→南都六宗)を輸入したはいいけど、
教義解釈でモメたら、答えは唐の”本部”にお伺いを立てた。
(『東大寺六宗未決議』
=自宗教学の疑問集。唐本部に答えを求めるもの。
後に「唐決」として制度化される)
こういう状況だから、
「当時の経典・論書注釈は、中国注釈書の丸パクリか切り貼り。
奈良時代に日本人が書いた仏教書で、読む必要があるものは
ただのひとつもない」と南さんは言う。
(唯一あるとすれば、この体制外にある『日本霊異記』とのこと。
私はたまたま霊異記しか読んでなかった。よかった~)
鑑真さんを呼んで一応、律の講義もしてもらったが、
死後は立ち消えになってしまったそうだ。
国の法律で管理するなら律なんかいらないもんね。
そう考えると、奈良のお寺・仏像がでっかいのは、
当然の話だ。あんな大きいのは民間では造れない。
国家が仏教を取り込もうとして骨抜きにして、
公共事業としてハコモノを造ったからー―。
ハコモノ仏教というわけだ。
当時、心あるお坊さんがいたら、やさぐれただろうなぁ。
よく日本仏教がダメだダメだという人があるけれど、
しょうがないですよ、スタートがこれだもの。
ここからよくぞ最澄・空海・親鸞・道元みたいな人たちが出てきて、
その後も、よく日本仏教は現代まで生き延びたものだと、
感謝したいぐらいだ。
南さんがいうところの「体制からハミ出す」という
「宗教の宗教たるゆえん」は死ななかった、ということか。
次回は2月29日(水)午後6:30@赤坂・豊川稲荷だそうです。

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