「苦があること」と「苦しむこと」を混同するな(『サンガジャパン』プラユキ師)
仏教雑誌『サンガ・ジャパン』Vol.8(特集「生きる」)を読んだ。
まだ全部読んだわけではないけれど、
タイ・スカトー寺副住職のプラユキ・ナラテボー師の
「生きる力に目覚める仏教」は、
ハッとすると同時に肩の力が抜けてほえ~っとする、いいものだった。
この方は日本人なんですねー。
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プラユキ・ナラテボー師プロフィール
本名、坂本秀幸。1962年、埼玉県生まれ、上智大学哲学科卒。
大学在学中よりボランティアやNGO活動を行い、タイ語を学ぶ。
大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学。
1988年、ルアンポー・カムキアン師の下にて出家。
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森の中にあるスカトー寺(Wat-pa-Sukato)には、
短期の瞑想修行に、悩める日本人も来るそうです。
日本でも、たまにプラユキ・ナラテボー師の瞑想会があるようだ。
『サンガ・ジャパン』から一部引用すると・・・
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日本では「人生=苦」であるかのような言い方をよく耳にする。
(仏教の「一切皆苦」という言葉を知って)「わが意を得たり」と、
ますますその思いを強めてしまうかもしれない。
しかし、ほんとうにお釈迦さまは
「生きることは苦しい」ということをおっしゃりたかったのであろうか。
生きることとは、それほどネガティブにとらえられなければならないのだろうか。
(中略)
ブッダに言わせれば、苦しみは見る(観察する)もの、
あるいは知悉(知り尽くす)ものである。決して苦しむものではない。
「苦しみがあること」と「苦しむこと」を混同してはならない。
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なんでわざわざ「生きることは苦」なんて暗い話を聞かにゃならんのや、
という、仏教へのよくある疑問に、上の言葉は端的に答えている。
まるごと苦しみに突っ込んで行かないためには、
「苦しみの奴隷に成り下がらない」ためには、
まず「苦」を知ることが第一歩なのだろう。
「苦しみの奴隷にならない」というのは、芸術の効用とちょっと似ていると思った。
立て続けに酷いことが続いたとき「うわ映画みたい」と思ったり、
脳内BGMで「悲愴」や「奇妙な果実」なんかが流れるとき、
生身で苦しみに突っ込んでいかずに自分を観察する自分がいる。
それから、プラユキ師によると、
日本人は瞑想するときもガチガチになりすぎらしい。
「タイ人が日本人を評して<クリアットだ>(凝り固まっている、
考えすぎの意)と言ったりする」
「気づきの瞑想では<タム・レンレン>(タイ語で「遊び感覚で
行なうの意)とやっていく」。
あと、苦の連鎖を断ち切るためには、十二縁起のうち
「受→(渇)愛→取(執着)」のところが重要、
という指摘も、なるほどと思った。
去年出た師の著書『苦しまなくて、いいんだよ』(PHP)は、
タイトルから、甘ったるい話かなと思って敬遠していたが、
そうでもないのかもしれない。
『サンガジャパン』の表紙は、大野更紗さんのベストセラー『困ってるひと』に
ちなんでいる。大野さんのインタビューも載っている。
他誌ではとつぜん障害を背負った苦労話をおねだりするが、
なんかミャンマーの話ばかりしていて好感が持てた(坊さんにナンパされた、とか)。