何のために坐禅をするのか(『自分を見つめる禅問答』) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

何のために坐禅をするのか(『自分を見つめる禅問答』)

年末に、南直哉さんの文庫新刊『自分を見つめる禅問答』

(角川ソフィア文庫)を本屋さんで見かけたので買った。
『「問い」から始まる仏教』(佼成出版社)が文庫化されたものだ。


これまた面白い本でしたねー。対話形式でわかりやすいし。
仏教の「縁起」なんて小難しい話は、自分の悩みに効かないと
思うかもしれないけど、ほんと効くんですぜ。
かなり遠回りに、かつ根源的にね。


本の中身をちょっとだけ紹介すると――


坐禅って何のためにやるんだろう、と思いませんか?

よく「精神集中」とか「自己を見つめる」とか言われるけれど。
何のために、何に、精神を集中させるの?
仏教の「縁起」や「四諦」はどう関係があるの?
ていうか、自分の「苦」は、坐ると減るのか?


そのことを、南禅師は理路整然と解き明かしてくれる。
『正法眼蔵を読む』でも書いてらしたけれど、
坐禅は、南さんにいわせれば
錯覚を解体して縁起次元に戻すことなのだという。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

曹洞宗は壁に向かって座る


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坐禅は、今言った、思い通りに対象を操作するという行動様式を
ストップして、言語が仮設する主体ー対象の二元図式を、
一挙に解毒することに大きな意味があると思う。
それは「縁起」というリアルな存在の次元を直接体験する行為
だと言えるだろう。


(中略)


(坐禅中に精神を「集中」させ「真の自己」を直観する(見性=けんしょう)というドラマティックな逸話とは)別も別、無縁だ。
坐禅の本領は、特に「見性」(人間に本来的に具わっている根源的な本証を徹見すること)という言葉を嫌う道元禅師の坐禅は、

「精神集中」ではなくて、むしろ「自分」の切り開きや「開放」だ。
それをぼくの言い方で言えば、「非己の受容」になる。


(同書P154~155、P162~163)

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本では、この坐禅の項の前に「縁起」について長く書かれていて、
なぜ自分の苦しみに坐禅が効くのかがわかるのだけれど、
長くなるので本を読んでみてください。


あと、坐禅のやり方――姿勢や呼吸についても書かれているので、
試しにちょっとやってみた。
そうしたら、飼ってるネコがやってきて
結跏趺坐の上に乗ってゴロゴロ言い出した。だめじゃーん。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

本の帯には南さんの写真が出ているが桂歌丸に似てきた


自分をみつめる禅問答 (角川ソフィア文庫)



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