欲も怒りも罪も清浄?(理趣経)
真言宗では今でも事あるごとに読誦するという『理趣経』と、
その解釈本『理趣釈』を読みました。
誰がどういう意図で書いたのか、謎が多いお経でした~。
17段あって、解説によると重要なのは1段と17段だとか。
(青字は『密教経典』講談社学術文庫、訳注:宮坂宥勝より)
◆なぜ「セックス経」と誤解されるような書き方を
わざわざしたのか?
理趣経の最大の謎は、第一段の「十七清浄句」です。
「妙適清浄の句、これ菩薩の位なり」(性的快楽が本来清らかな
ものである、という成句は、そのまま菩薩の立場である)
に始まり、異性への執着から性欲から着飾ることまで、
十七つを挙げて、みんな「清浄」なのだと書いてあります。
「これは男女の恋愛関係の過程を極めて率直かつ大胆に
17段階に分析したものであって、
すべてが清らかであると高唱している。
が、これはもとよりさとりへの道を比喩的に説いたものである」
(同書解説より)
つまり、比喩であって、性交礼賛と思うのは誤解だと。
空海も、誤解を恐れて注釈書『理趣釈』を
最澄にさえ貸さず、ほとんど誰にも見せなかったと。
でもさー、これは誤解するなっていうほうが無理ですよ。
「妙適清浄」ってはっきり書いてあるんだもの。
比喩的に説くなら別の例でもいいだろうに、
なぜわざわざアンチ不邪淫みたいな話を?
インパクトを狙ったのか?
人に見せらないお経って意味なくないか?
実は作者は本気で、セックスでラブ&ピースを説いてたりして?
◆「一切清浄」はどう役に立つのか?
「一切の法は自性清浄」ということが繰り返し出てきます。
「世間の一切の欲は清浄なるがゆえに、
すなわち一切の瞋(怒り)は清浄なり。
世間の一切の垢は清浄なるがゆえに、
すなわち一切の罪は清浄なり」(第四段)
煩悩も含めたあらゆるものは本来清らかなのだ、と。
「大楽三昧というのは、大いなる絶対の安楽の境地であって、
それはあらゆる存在するところのものが清らかな宇宙精神の
活動そのものとして開けている絶対の風光を言う。
たとえば一般仏教(顕教)では絶つべきものとされるわれわれの
煩悩も、密教のさとりの立場から見るとき、それは宇宙生命の
発現なのであって、取り除くべきものでなく、制御し浄化される
べきものである」
「それは俗なるものに対してシビアな否定精神を媒介した
絶対肯定の世界であり、本経が生命賛歌の経典として
仏教思想上特異な意義と位置とを有するゆえんであろう」
(同書解説より)
生命賛歌。話としては素敵だと思いますが・・。
たとえばホストにいれあげて、他の客との競争心から
毎夜シャンパンを空けまくり、サラ金地獄に堕ちてリストカット
ー―という闇金ウシジマ君的な煩悩女性がいたとして、
彼女は「欲も清浄」の教えをどう使えばよいのでしょうか?
◆なのに、なぜ怒っているのか?
仏の化身で、「忿怒の相(怒り顔)」の明王がよく出てくる。
(密教以前は、怒り顔の仏はいなかった)
衆生を怒ってでも救うためだという。でも、何を怒るの?
「そんな煩悩は捨てろ!」と怒ると矛盾しそうだし・・・。
一方、『理趣釈』のほうは、面白かったのは、
お経の註釈だけでなく、半分は曼荼羅制作マニュアルなんですね。
各段ごとにいろいろな曼荼羅を詳述して、
「曼荼羅を書け書け」と薦めている。
講談社学術文庫の同書には、最後に19種類もの曼荼羅を
図解してあります。いろんな種類があるんですね。
たとえば理趣経第17段を表す「五秘密曼荼羅」
男性の金剛薩垂の周りを四体の女性金剛(明妃=みょうひ)が
取り囲んでいる。明妃は、①欲、②触、③愛、④慢の四煩悩を
表している。
五秘密曼荼羅(天野山金剛寺)

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