スピード菩提(大日経その2)
わからないなりに「大日経」のメモの続きです。
青字はすべて
『密教経典』(講談社学術文庫 訳註:宮坂宥勝)より。
新興教団・真如苑が14億円で落札した運慶の大日如来
大日経で、もっとも有名で大事らしい一節がこれです。
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三句についての如来の教え
秘密主よ、云何(いかん)が菩提とならば、
いわく、実の如く自心を知るなり。
現代語訳:
秘密主よ、さとりを求める心(菩提心)とは何か、
というならば、ありのままに(ことごとく)
自らの心を知ることである。
註:
<如実知自心>
「大日経」のみならず密教の核心ともいえる語句。
(中略)
ブッダグヒヤは、「ありのままに悉く自らの心を知る」とは、
認識主観と認識対象を離れることを前提とすること、
さらには世俗と第一義のものがすべての識のかたち(行相)に
おいて空であること、という二つの解釈を示す。
註釈書「大日経疏」
現代語訳:
もしありのままに自ら(の心)を知るならば、
つまりこれは初めてさとりを求める心を起こした(初発心)
のときに、そのまま正しいさとりを完成することになる。
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悟りを求めた瞬間にすぐ悟り。わあ速い。
密教はともかく「速い」ことがひとつの売りであるらしく、
ほかの場所にも「修行が長ければいいってもんじゃない」
という話が出てきます。
速いけれども、簡単ということではなくて、
この「実の如く自心を知る」が大変難儀なことらしいです。
というか、私にはまだ、意味がよくわからない。
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・普通に考えてもわからないらしい。
「虚空の相はこれ菩提なり。
知解(ちげ)の者もなく、また開暁もなし」
訳:大空のかたちはとりもなおさず、さとり(のすがた)である。
(大空のかたちは、かたちなきものであって、無益な議論や思慮を
遠ざかり離れているから、それについて普通の知識で理解する者も
なければ、それについての知識を完全にすることもない)
さとりも、また同様
・「自らの心」は本来清浄らしい。
出ました、みんなが好きな本来清浄説。
「自心に菩提と及び一切智とを尋求す。何を以っての故にとならば、
本性は清浄(しょうじょう)なるが故に。
訳:自らの心に、さとりと全智とをたずね求めるのである。
なぜかというならば、(人は誰であっても、自らの心というものの)
本来の性質は清らかなものであるからである。
・心は見つからないらしい。
訳のみ:
どのようにして自らの心を知るのであるか。それは次のとおりである。
もしくは区別の相(分段)、または色彩(顕色)、または形態(形色)、
または(色・声・香・味・触・法の)の領域(境界)、
または色、または受・想・行・識、または自我、または自己所有の概念(能執)、
(長いので中略、ともかく)すべての区別の相(一切分段)のうちに心を求めても、(心というものの実相は)認得することができないのである。
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「自らの心」を知ればスピード菩提と聞いて喜んだのも束の間、
心は見つからないし、思慮分別はムダらしい。
ほなどうせいちゅうねん、と思いますが、密教で重要なのは儀式。
真言を唱え護摩行など秘密の儀礼をやれば直観で体感できます、
という話なのでしょうか?
実際「大日経」は7巻あるうち、
上記のような理論部門(教相)は1巻前半の「住心品」ぐらい。
残りの、実修部門は儀礼の仕方などが延々と書いてあるそうです。
儀礼主義は、モロにバラモン教への逆戻り観がありますが・・。
高野山のゆるキャラ・こうやくん。秘密っぽくない。
前に読んだ中村元先生の講義本『密教経典・他』(東京書籍)でも、
「真言密教の儀式・儀礼に通じている人でないとなかなかわからない、
さらに秘密にして門外漢には伝えない部分もあって、
経典の講義としてとりあげることは難しい」とあって、
大日経がわずか4~5行(!)しか引用されていないという
つれないものでした。

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