62見をちまちまとリストにした(長部1経「梵網経」その2) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

62見をちまちまとリストにした(長部1経「梵網経」その2)

長部経典第1経「梵網経」の続きです。
バラモン経から新進思想まで、新旧入り乱れる
沙門・婆羅門の見解を批判的に列挙したのが「六十二見」です。

当時の”思想界の縮図”とのことなので、

備忘録として62個を愚直に書き写してみました。
はっきりいって、これ以降は読んでも面白くないです。


62といっても繰り返しが多く、整理すると

・禅定で得た感覚を、真理だと思い込む
・全部であれ一部であれ、世界や我が常住であると考える
・現在には何の原因もないと考える
・どんな状態であれ、死後に我が存在する
・瞑想のどこかのレベルで、死後完全消滅できる
  (→このレベルでは普通に輪廻しちゃう、ということ?)
・詭弁(これはちょっと土俵が違うかんじ)


私が死んだら、なにか(魂とか)が継続するでもなく

さりとて完全消滅するでもない。だったら一体どうなんの?
とも思うわけですが、ややこしいことに、
梵網経では62見を「間違いだ」は言っないんですねえ。
(第2経の沙門果経でもそう)


批判のポイントは、”低レベルだ”みたいな言い方。
・これらは「執着され固執された見解」である。
・これらは感覚器官が外部に「接触」して生じる「感受」にすぎない。
 (何かを見聞き体感して、そんな気になっただけである)
・如来はこれらの見解を超えている


控えめに言うと、
「瞑想・座禅や理論で、なにかがわかった!と思っても、
気のせいだったりするので、固執するな」
ということは確実なようです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
龍谷大学蔵の仏頭


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62見リスト

(『原始仏典 長部経典Ⅰ』春秋社、浪花宣明訳の梵網経より。
 一部、勝手に要約しています)


<過去に関する説>

1)常住論

「我と世界とは常住であり、生み出さず、山頂のように不動であり、
石柱のように不動である。
生ける者は流転し輪廻し、死に、再生するが、永久に存在する」
という見解。そう思う根拠は、以下の4種類

1.心を統一(サマディ)したとき過去世の名前から生活まで
 すべて思い出せることを根拠に、常住だと主張する。

2.心を統一したとき、過去世のひとつの消滅の劫と生成の劫から
 10のそれ、というようにすべて思い出せることを根拠に
常住だと主張する。

3.心を統一したとき、過去世の10の消滅の劫と生成の劫から
 40のそれ、というようにすべて思い出せることを根拠に
常住だと主張する。

4.理論と推論を根拠に、常住だと主張する。


2)一部常住論

「我と世界とは、1部は常住であり1部は無常である」。
 根拠は以下の4つ。

1.大梵天はすべてを支配する創造主で、つねに変わることなく存続する。
 わたしたちは梵天によって化作されたものだから、寿命が少なく無常である。

2.貴い天人たちは(まともに生きてるから)つねに変わることなく存続する。
 わたしたちはキッダーパドーシカという天人で、延々と快楽に耽りすぎて
 記憶喪失になって死ぬ者なので、寿命が少なく無常である。

3.貴い天人たちは(まともに生きてるから)つねに変わることなく存続する。
 わたしたちはマノーパドーシカという天人で、
 互いに嫉妬しあい憤怒しあったので、寿命が少なく無常である。

4.理論と推論を根拠に、身体は無常だが、
 心(意・識)はつねに変わることなく存続する。


3)有限無限論

 世界は有限で、あるいは無限で、あるいは有限でなく、無限でない
 という見解(なんじゃそりゃ~? 意味わからん)。根拠は以下の4つ。

1.心が統一したとき、「この世界は有限であり、周囲がある」と思う。

2.心が統一したとき、「この世界は無限であり、周囲がない」と思う。

3.心が統一したとき、「この世界は上下方向は有限で、左右方向は有限」
 と思う。

4.理論と推論を根拠に、「この世界は有限でもなく、無限でもない」


4)詭弁論

質問を尋ねられるごとに、ことばの錯乱した詭弁に陥る。以下の4つ。

1.これが善か悪かはっきりわからないのに、褒められたい欲望から
 知ったかぶりで偽りの答えをして、あとで後悔・苦悩するのは嫌だ。
 だから質問されるごとに、どっちとも取れない錯乱した答えをする。

2.(上に同じ)で、偽りの答えをして、あとで怒って執着して
  苦悩するのは嫌だ。だから錯乱した答えをする。

3.これが善か悪かはっきりわからないのに、ディベートして回ってる
 沙門・バラモンと論争して、論争に負けて苦悩するのは嫌だ。
 だから錯乱した答えをする。

4.愚鈍・愚昧(要はバカ)なので錯乱した答えをする。
 

5)無因論

我と世界が、なんの因もなく生起するという見解。

1.心が統一したときに、なんの因もないと思う。なぜなら、
 私は以前には存在しなかったのに、今は生けるものとして現われているから。

2.理論と推論を根拠に、「なんの因もない」と思う



<未来に関する説>

未来の限界に関して44の根拠によって種々の浮説を主張する。

1)死後有我有想論

死後、心理作用(想)を有する我の存在することを主張する。
(16項目もあるけど、ぜんぶ「我が死後に存在する」との見解)

1.物質的要素からなり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
2.精神的要素からなり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
3.物質的要素かつ精神的要素からなり、
           心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
4.物質的要素からも精神的要素からもならず、
           心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する

5.有限であり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
6.無限であり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
7.有限かつ無限であり、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
8.有限でも無限でもなく、心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する

9.ひとつの心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
10.種々の心理作用の有す、常住の我が、死後に存在する
11.限定された心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する
12.無量の心理作用を有す、常住の我が、死後に存在する

13.もっぱら楽を有す、健康な我が死後に存在する
14.もっぱら苦を有す、常住の我が、死後に存在する
15.楽と苦を有す、常住の我が、死後に存在する
16.苦も楽も持たない常住の我が、死後に存在する


2)死後有我無想論  

死後、心理作用(想)をもたない我が存在することを主張する

上の1.~8.の「心理作用を有す」を「心理作用をもたない」
に置き換えたもの。


3)死後有我非有想非無想論

死後、心理作用(想)をもつのでもなく、もたないのでもない
我の存在することを主張する

上野1.~8.の「心理作用を有す」を「心理作用をもつのでもなく
もたないのでもない」に置き換えたもの。


4)断滅論

生ける者が断滅し、消滅し、滅亡すると主張する

1.この我は物質的要素からなり、4つの大きな要素からなり、
 母と父から生まれ、身体が壊れたあと、完全に消滅する。

2.完全に消滅する我はこれだけではない。
 ほかに天の世界の存在であり、物質的要素からなり、
 欲望の支配する領域に属し、食べ物によって養われる我がある。
 その我は、身体が壊れたあと、完全に消滅する。

3.上の2.の3行目を
 「すべての肢体をそなえており、すぐれた感官を持っている我がある」
 に置き換える。

4.「物質についての想念を完全に越えて、空間の無限を感ずる境地
  (空無辺処)に到達した我がある」に置き換える

5.「意識の無限を観ずる境地(識無辺処)に到達した我がある」に

6.「なにものも存在しないと観ずる境地(無所有処)に到達した我」に

7.「これは寂静でありすぐれている、と、心理作用があるでもなく
 ないでもない境地(非想非非想処)に到達した我」に

※瞑想の最高レベルまでいっても消滅はしないということ。
 それより上レベルの涅槃で初めて消滅する、という意味か?

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