孤独な人、聖徳太子 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

孤独な人、聖徳太子

語る禅僧・南直哉さんの仏教史講座・11月のメモの続きです。
あんまり勝手に文字にしないほうがよいのだけど、ちょっとだけ。
南さんがしみじみ言った、
聖徳太子は孤独だったでしょうねえ・・」という言葉が印象に残っている。

どういうことか。

※以下は、南さんのお話を、私の記憶で勝手に再構成したもので
間違いがあれば私に責があります


外交上の必要に迫られて、仏教を輸入した立役者は、蘇我馬子と聖徳太子。
けれど蘇我家はその後、中大兄皇子(天智天皇)らがクーデターで
蘇我入鹿を殺して滅びてしまう。
そんな、朝敵・曽我が仏教輸入の功労者だというのは都合が悪い。

そこで、すべての功績を聖徳太子におっかぶせて、
日本仏教史の偉人として「日本書紀」等に記した。

たとえば聖徳太子が書いたとされる、日本初の仏典解釈書『三経義疏』は、
現在の研究では、太子自身の著作でないことはほぼ明らか。
中国から輸入したか、または中国の書を7割方パクッて日本で書いたか、
よくでも太子周辺の渡来僧グループが書いたか、と考えられている。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

ではスーパースターの虚飾をはぎとってみると、
実在の人間としての聖徳太子=厩戸皇子は、
仏教をどのように捉えていたのだろうか?

当時の日本は、仏に国を護ってもらう、雨を降らし疫病を治めてもらう、
ぐらいのイメージと目的で輸入しているから、
諸行無常とか空みたいな教義はどうでもいい、ていうか邪魔。
そんななかで、聖徳太子はもしかすると当時の日本人で誰よりも、
仏教をまともに理解していたかもしれない、というから面白い。


そう考えられる理由とは・・・

1)
595年に高句麗から慧慈、百済から慧聡という僧が来日していて、
聖徳太子の仏教の師とされている。
この僧たちは三論・成実系の人たちなので、
ざっくりいうと龍樹の「空」の教学体系がここで輸入されたはず。
つまり聖徳太子は、日本で初めて本格的な教学
(つまり現世利益をもたらす”神様の外国版”ではない仏教)
に触れたということは間違いない。


2)
『日本書紀』に、聖徳太子から息子への遺言として
「諸悪莫作 衆善奉行」(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)と記されている。
これは「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」=過去6仏+お釈迦さまの7仏が
共通して説いたこと、として初期パーリ仏典に出てくる=4句のうちの
はじめの2句にあたる。
意味は「諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい」。
(それによって自らを浄めるのが諸仏の教えである)
これは「修行して自分を高める」という、正しくお釈迦さま仏教の真髄である。
当時の日本の「神仏に祈って何かしてもらう」という態度とは全く違う。

3)
奈良・斑鳩の中宮寺にある「天寿国繍帳」
(聖徳太子の死を悼んで正妻が作らせたとされる)の銘文には、
「世間虚仮、唯仏是真」(世の中は仮の姿、ただ仏だけが真である)
という文字が書かれている。
「天寿国繍帳」は後世のものではないかという議論もあるらしいが、
妃が作ったのが事実なら、聖徳太子は常日頃から、
このセリフを言っていたと考えてもいいだろう。
これも「諸行無常」という、正しく仏教の真髄。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
天寿国繍帳

これらのことから考えると、
ナショナリズムのために担ぎ上げられた聖徳太子は、
ナショナリズムと全く関係ない仏教の核を
きっちりとわかっていたと思われる。

そこで南さんがしみじみと漏らした言葉が、
「だから聖徳太子は孤独だったでしょうねえ」なのである。

まともに仏教の話をできるのは、周りのわずかな渡来僧だけで、
日本人は政治利用でギラギラしてるか、何もわかってないかのどちらかで、無常?修行?なにそれ?という状態だっただろうから。


考えてみると、
こういう孤独を感じている、現代のお坊さんも少なくないだろうと思う。
教学的なことを学べば学ぶほど、宗派のエライさんや檀家さんの期待とギャップが開いていくというような・・。


あと南さんの話で、「空海すごい」「親鸞さんに激しく共感」という話も
とっても面白くて、来年以降はそのへんも講義してくださるのでは。

次回は1月30日・午後6時半~(赤坂・豊川稲荷)の予定。

無料ですが、場所代がわりにお賽銭箱にいくばくかを・・とのことです。


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