不必要に人をケナしも褒めもしない(中部139経「無諍分別経」)
どこかに書いてあったけど、どのお経だったかなあ、と
どんどん忘れていってしまうのでガックリです。
しばらく、無粋な備忘録です。
「中部経典」第139経「無諍分別経」(心が乱れない生き方)
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(お釈迦さまのことば)
「また人は、称賛とはなにか、そして非難とはなにかを知るべきである。
それらを知ったうえで、称賛すべきではなく、非難すべきでもない。
ただ真理だけを知るべきである」。
「さらに『生存に結びつけるものを捨てていない人々はみな、
苦しみをもち、悩みをかかえ、愁いをいだき、ひどい苦悩をもつ。
つまりかれらは間違った道を行く人たちである』といって、誰かを非難する。
(逆に、誰かを称賛する)。
修行僧たちよ、こういう場合が『真理の説示はなくて、称賛があり、非難がある』
というのである。
(こういう言い方をするのでなくて)
「『そういう楽しみの喜びに夢中になることは、苦しみをともない、愁いをともない、
ひどい苦痛を伴う。つまり、これは間違った道である』といって、
ただ真理のことばを説く」
『原始仏典 中部経典Ⅳ』春秋社 139経 勝本華蓮訳
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何かを言うときに他人を引き合いに出さず、命題そのものスバリを語ろう。
これは心しておかねば・・・。
「○○してる人ってヒマだよね~」みたいな言い方は、
気持ちいいのでついやってしまうけれど。
同じ139経で、「方言に執着し、通称に関してあやまりを犯すな」
ということも説かれています。
ある地方の人が「パーティ」(椀)と呼ぶ同じものを、他の地方では「パッタ」(椀)
と呼び、「ヴィッタ」(うつわ)と呼び、「サラーヴァ」(皿)と呼ぶ。
でも、「自分の使う名称に執着せずに、『この尊者たちはきっとこれのことを
言っているらしい』と考えて、その地方の呼び名に従って話す」べきである
と説かれています。インドは方言が多いから大変だ。
「わかるように言葉で伝える」ことを、お釈迦さまは放棄しないんですね。
「真理は言葉で表せない」などと投げてしまわないで、
もし表せないとしても、言葉と論理でギリギリ肉薄しようとするのが、
お釈迦さまの態度であったように思います。
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