まだ見ぬ未来を追い求めるな(中部131経「吉祥なる一夜」)
本日は中部経典第131経「跋地羅帝経」(吉祥なる一夜。相当する漢訳はなし)。
このなかで、お釈迦さまが誦む「吉祥なる一夜」という偈は、
将来不安におののく私にとってギクリとするものでした。
============================
(「吉祥なる一夜」)
過去を振り返るな、
未来を追い求めるな。
過去となったものはすでに捨て去られたもの、
一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。
そこで、いまあるものを
それぞれについて観察し、
左右されずに、動揺せずに、
それを認知して、増大させよ。
今日の義務をこそ熱心にせよ、
明日の死を知り得る人はいないのだから。
死神の大軍勢と
戦わないという人はいないのだから。
このように熱心に禅定を行う人、
昼夜怠けぬ人、
その人こそが『吉祥なる一夜における、
心静まった行者』として語られる。
『原始仏典 中部経典Ⅳ』春秋社 第131経 長尾佳代子訳
=============================
132~134経にも同じ偈が出てきて、
いろんな仏弟子がその意味を解説する形になっています。
「過去にこういうことがあった」「こう感じた」といったことに喜びを見出したりしない。
「未来にこういうことがあるだろう」「こう感じるだろう」
「こういうものがあるといい」「こう思おう」といったことに喜びを見出したりしない。
まだ見ぬもの得ようと心に願わない。
いまあるものを、見たり聞いたり感じたりしても
欲と貪りにがんじがらめになった認識を持たず、よろこばない。
というのが、おおまかな意味です。
これってすごい話ですよね。
「まだ見ぬものを得ようと心に願わない」というのは
「夢」の否定も同然で、
「夢を持て」大合唱の昨今にこんなこと言ったら袋叩きにされそう。
(私は「夢は別にない」ので、そう言うと、たいてい非難がましい目を向けられます)。
一方で、過去・未来に喜びを感じるだけでなくて、
去ってしまった過去を後悔したり根にもったり、
まだ見ぬ未来を恐れたり不安に思うことも、
同様に迷妄だと言っているのでしょう。
明日死ぬかもしれないのに、年金の心配なんかもうやめた!
にほんブログ村