本質なんかない。縁起だー!(『正法眼蔵を読む』その1)
先日、「強烈に面白い」と書いた南直哉さんの
『正法眼蔵を読む 存在するとはどういうことか』(講談社メチエ)。
道元禅師の『正法眼蔵』を南さんが丁寧に解釈していって、
解釈部分は論理クリアでわかるのだが、
なにせ『正法眼蔵』の引用部分が涙目になる難しさ・・・。
私は『正法眼蔵』自体はもちろん解説書も昔挫折しているので、
知識ゼロだったのだけれど、なぜこの本を手に取ったかというと、
南さんがお釈迦さまと道元さんによって「生きる」方にチップを張ったという以上、
お釈迦さまと道元さんは一直線で繋がるだろう、とのヤマ勘からだった。
その勘は大当たりだった。同書を読むかぎり。
ところが、曹洞宗での従来の読まれ方では、そうではないらしいのだ。
南さんは、従来の読まれ方を徹底的にひっくり返す。
その体の張り方が強烈に面白いのだ。
その”従来の読まれ方”を、同書では
「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)パラダイム」と呼んでいる。
(青字は同書からの引用。うまくつまむだけの知識がないので長く引用します)
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「本証」「妙修」とは、従来『眼蔵』の一巻と言われてきた
「弁道話」に出てくる言葉である。
(「本証」と「妙修」が一緒に出てくるのは、道元の全著作をとおして、
たった1か所だけなのだという。中略)。
「本証妙修」という四字熟語に仕立てられた考え方は、
修行と悟りの関係について、この二つの引用部分に出てくる
「本証」を「本来の悟り(もともと悟っている)」と解釈し、
「妙修」を「修行によって本来の悟りが現れる」とするのである。
じつは、明治以降、現在に至るまで、この読み方が『眼蔵』読解の
主流中の主流であり、事実上「正しい『眼蔵』解釈」の地位を
占め続けてきたと言っても過言ではない。
この読みは、明治になって近代教団として再出発を迫られた曹洞宗が、
一般在家を教化するテキストとして編纂した『修証義』の、思想的枠組みである。
発案者は大内青巒(せいらん)という在家仏教者で、
彼は『眼蔵』から適当な部分を抜粋して、このパラダイムを用いて、
一つの「経典」を新たに編集したのである。
したがって、なぜに『眼蔵』本体の読みにこのパラダイムが
適用されることが「正しい」とされるのか、私には皆目わからない。
(中略)
この(本証妙修パラダイムの)考え方の根本は、
古今東西に数多ある思考法の中でももっともポピュラーな
本質/現象の二元論である。
およそこの世界に存在するものは、我々の知覚に捉えられる現象と、
その現象の現われ方を規定する本質に2分され、
その組み合わせで世界の全構造が説明される。
(中略)
大内に言わせれば、我々が本来悟っている(本証)と「わかりさえすれば」、
「自然」と修行が行われる(妙修)。つまり本質が自然に反映されて、
秩序だった生活(=修行)になるわけだ。
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「修証義」は今も曹洞宗で「お経」として読まれるそうだが、
明治23年編纂という、そんなに新しいものだったとは・・。
でも、今まで”正統”とされた、この「本証妙修パラダイム」では
『眼蔵』は読めない、と南さんは断言する。
「本証妙修パラダイム」とは、言い換えれば
「本質」「実体」めいた虚構を設定する立場のことだ。
「”机”の本質」とか「本当の自分」とか「本来の悟り」とか、
人間に内臓されている仏の本質みたいな意味での「仏性」とか。
でも南さんは、ありとあらゆる「本質」「実体」の設定を排除する。
「仏教の<無常><無我>という教えからして採用できない立場である」から。
(わたしもそう思います)
そして、南さんが同書で提示するのは「縁起パラダイム」である。
「縁起」=「ある存在はそれと異なる存在との関係から生起する」
のパラダイムで、『眼蔵』を片っぱしから解釈し直す。
というか、同書で引用されている『眼蔵』と解釈を読むかぎり、
これは縁起の話だろうとしか思えない。
もちろん、縁起パラダイムの地平を開いたのは、お釈迦さまその人だ。
同書は難解なのだけれど、はじめから最後まで全身全霊で、
「本質なんかない。縁起だー!」と叫んでいるように感じた。
たとえば「仏性」の巻に出てくる以下の一文。
「いわゆる仏性をしらんとおもわば、しるべし、時節因縁これなり」。
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「時節因縁とは時と場合における諸関係の在りようを言っている。
つまり縁起のことであり、仏性とは縁起だ、とこの一文は断言している。
ということは、仏性の理解が従来とは根本的に異なっている。
それは存在の<本質>ではなく、仏教の考える<ものの在り方>の意味になる」
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「藝術は爆発だ!」並みに流行ってほしいですね、「仏性は縁起だ!」。
ここいらも同書では懇切丁寧に書いてあって、
あまり乱暴につまむと失礼なので、現物を読んでください。
「みんな、本来は仏さまなんですよ」(私はこのセリフを
曹洞宗の古参から聞いた)みたいな生温かい話に満足できないかたはぜひ。
やっぱ「本証妙修パラダイム」なのかなあ。
南さんは、ご自身を「異端解釈者」だと書いている。
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「結局、<正統>だろうと<異端>だろうと、
私には私の問いを問い続けるしか道はなかった。
それ以外に仏教を学ぶ意味はなかったし、『眼蔵』を読む必然性もなかった。
だから私は、自分の解釈を<正統>であるとも<真理>であるとも思っていない。
すべて自分の都合である。
ただ私は、自分の問いが釈尊にも道元禅師にもあっただろうと、
しかも決定的にあっただろうと、信じている」。
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ブラボー!
『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ)