このような人には無関心でいるべきである(中部103経「キンティ経」)
中部経典のメモの続きで、第103経「キンティ経」(論争を避けるために)。
「キンティ kinti」とは「どのように考えるか」という意味だそうです。
なかでも、ルールを犯した比丘への「叱責の仕方」が、私にとって珠玉でした。
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「比丘たちよ、あなたたち全員が一致して、喜びながら、論争することなく、
修学しているとき、ある一人の比丘が罪を犯し、違犯するとしよう。
比丘たちよ、このとき、叱責を急ぐべきではない。
人は観察されるべきである。
『このように、わたくしには害がなく、他の人にも危害がないであろう。
なぜなら他の人は怒っておらず、恨んでおらず、こころが固陋でなく、
寛大であるからである。わたしもまた、この人を悪から立ち直らせ、
善に向かわせることができる』と。
比丘たちよ、もしこのようであるなら、(叱責の)ことばは適切であろう」
※自分と周りがこうむる害の、いろいろなパターン(わたしに害があって
周りにはない、など)が挙げられますが、結局、それは関係なくて、
叱責すべきかどうかは、「相手を立ち直らせることができるかどうか」だけにかかっている。
「しかしわたしはこの人を悪から立ち直らせ、善に向かわせることができない」と、
このようであるなら、比丘たちよ、
このような人に対しては無関心となり、関わりをもつべきでない」
「原始仏典 中部経典Ⅲ」(春秋社)第103経 浪花宣明訳
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言葉に関するお釈迦さまの教えはとても多いのですが、
いつも「実利のあることを話せ」と書いてあります。
何の効果もない説教など、ムダなおしゃべりも同然ということ。
ふと、以前読んだ精神科医の斎藤環さんの本を思い出しました。
たしか『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論』
(中公新書ラクレ)だったかな。
当時「ひきこもる若者=犯罪予備軍」みたいな偏見があったのに対し、
斎藤さんいわく、キレて人を殺めるような「反社会性」と、
ニート・ひきこもりのような「非社会性」はぜんぜん別物だと。
そして、ニート・ひきこもりのような「非社会的」な若者に対して、
理解もできないし有効な策も持ち合わせていないなら、
「せめて無関心でいてあげてはくれまいか」と、斎藤さんは書いていました
(本が手元にないので表現は違うかもしれないけれど)。
「原始仏典 中部経典Ⅲ」を読み終わったので、
最後の「中部経典Ⅳ」に入る前に、
どういうわけか曹洞宗の禅僧・南直哉さんの
『正法眼蔵を読む 存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)
を読んでいます。
これが、強烈に面白い!
最後の8ページ「終章 自己を課す意志」だけでも読んでほしい大名文。
でも、相当難しいので、頭が整理できたらメモにしていこうと思います。
『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか (講談社選書メチエ)