民藝運動と浄土教(銀座松屋 柳宗悦展) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

民藝運動と浄土教(銀座松屋 柳宗悦展)

銀座の松屋でやってる柳宗悦展に行ってきた。


「没後50年・日本民藝館開館75周年 -暮らしへの眼差し-柳宗悦展」
2011年9月15日(木)-9月26日(月)
入場料 一般1,000円 高大生700円 中学生以下無料
http://www.matsuya.com/m_ginza/exhib_gal/details/20110915_yanagi.html



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


柳宗悦(1889-1961)と「民藝運動」のことは薄く知っていた程度だけれど
熟年以降に親鸞と無量寿経にインスパイアされて「仏教美学」を確立した……
というあたりに興味があって、覗いてみることにした。

(東京・駒場の「日本民藝館」に昔何度か行ったが、とっても良いところです)。


いまでこそ「民芸品」などと普通に言うけれども、
民芸(民衆芸術)」という言葉は柳宗悦らが1925年(大正14年)に作ったものだ。
名もない職人がつくって庶民が使っている食器やら箪笥やら織物やらが芸術だなんて、誰も思ってなかったのを、「そこにこそ”健全な美”がある」と
高らかに提唱した柳宗悦は、民藝運動を繰り広げて収集・研究を進める。

(わあ、いかにも浄土系っぽいなあ、と思うけれども、仏教が出てくるのはずっと後のこと)。


民衆藝術に目を付けたのは柳宗悦の審美眼が凄かったのだろうけど、
当時の政治的・文化的なトレンドも背景にあるとは思う。
柳宗悦は文芸誌『白樺』(1910~1923年、明治43~大正12)の
中心メンバーだけれど、時は大正デモクラシー。
1918年には、『白樺』の武者小路実篤らが宮崎県に集団農場「新しき村」をつくって、
我欲も階級もないブラザー&シスターのユートピアを目指した。


1917年にはロシア革命で、庶民=労働者が主役の国が初めて誕生して
世界のド肝を抜いたし、彼らの提示する新藝術のカッコよさにも世界が驚いた。
芸術の世界でも、ゴテゴテ装飾した貴族趣味っぽいのや有名な先生がつくったもの
ではなくて、実用に根ざしたシンプルなものに美がある、というような
ムーブメントが世界的に起こっていた。

ともかく、そういう時代に日本で起こったのが「民藝運動」だ。
天然に従順なるものは、天然の愛を享ける」(『民藝四十年』雑器の美)
という柳宗悦の言葉が、今回の展示場の壁に貼ってあった。


柳宗悦も含めて『白樺』は「下から学習院→東大」のお坊ちゃん集団だったので、
彼らの”民衆びいき”を揶揄する人たちは当時からいたそうだが、
今にして思うと、素朴で天然で善なる庶民、みたいなことを信じられた時代が
あったのだなぁと、遠い目をしてしまいます。


柳宗悦は35~36歳で笑顔がかわいい木喰仏に魅せられて
全国を回って約350体を発見したということはあったにせよ、
本格的に仏教に傾倒したのは50歳代後半だった。

昭和21年、57歳ぐらいの頃、城端別院善徳寺で見た「色紙和讃」に感動して、
23年に「仏教美学」宣言ともいえる『美の法門』を一日で書き上げたという。
この「色紙和讃」は親鸞著の「高僧和讃」を色紙に書いたもので、
今回も展示されていたけれど、たしかに美しかった。

横には「宗教的になる原理と、ものが美しくなる原理とは一如である
という柳の言葉が貼ってあった。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  木喰仏

釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  色紙和讃


『美の法門』は、『無量寿経』の「弥陀の48願」の第4願、通称「無有好醜の願」で始まる。民藝の根拠はこれだったんだ!と啓示を受けたのだという。

阿弥陀如来がまだ菩薩だったころ、
「この48個が実現しなければ私は如来になりませんように」という
願をかけたうちの、4つ目にあたる。


======無有好醜の願======================


(漢文)
設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺


(書き下し文)
たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天、形色(ぎょうしき)同じからず、
好醜あらば、正覚を取らじ。


(梵文和訳)
世尊よ、かのわたくしの仏国土において、ただ世俗の言いならわしで
神々とか人間とかいう名称で呼んで仮に表示する場合を除いて、
もしも、神たちと人間たちとを区別するようなことがあるならば、
その間わたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。


『浄土三部経(上)』岩波文庫
==================================


阿弥陀のいる極楽浄土には好醜(美醜)の区別などない、ということ。
ひとつ前の第3願に、「みんな身体が金色になる(仏の特徴)」
とあるのはちょっと笑える。


岩波文庫の註釈によると、お経でいう美醜は現実的な背景があるようだ。
見た目が醜い(たとえば下層カーストで色が黒いとか)のは
前世に悪いことをしたからだ
」という業論が当時あったので、
そういう差別がなくてみんな身体が金色の極楽浄土を夢見たのだ、
という註釈がついていた。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
柳の書「無有好醜」も展示されていた


柳宗悦の捉え方は、もっと観念的だ。
普通に常識が言う美しさは、美醜が二つに分かれて巳後(いご)
のことである。だが二つに未だ分かれてない巳前(いぜん)の
美をこそ訪ねねばならない
」(『美の法門』)。


で、名もない職人が、美しいものを作ろうとしたわけでもなく、
自己表現を試みたわけでもなく、他力(要は他人からの注文)
によって毎日黙々と作ったものに美が宿るということに
浄土教的な仏の世界を見たようである。


”美醜の二項対立を超越した境地”というのは、
観念としてはわかるけれど、具体的にどういう行為を指すのかしら?
引き出物でヘンな花柄のダッサい皿とかもらったら、
柳さん、やっぱり「う、醜い」と捨てちゃいそうに思うのだけど。
そういう次元の話じゃないんでしょうね、たぶん。


柳宗悦展入り口前には、松屋が何度かやってる

「銀座手仕事直売所」というスペースがあって、

台所用品やら陶磁器やら布やらの生活雑貨を売っていた。

ちゃんと作者や工房の名前が出ていて、たとえば焼き網も茶漉しも3000円以上。

名もなき中国人の手による百均商品に慣れている身としては

手が出なかったが、貯金がありそうな年配のお客さんたちがバンバン買っていた。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
仏教関連の文章がまとめて読めるちくま学芸文庫の第3巻


柳宗悦コレクション3 こころ (ちくま学芸文庫)


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