愛は苦のもとか喜びのもとか(中部87「愛生経」)
本日は中部経典第87経『愛生経』(愛より生じ、愛が引き起こすものとは)。
これはとても印象深いお経でした。
誰をもなにものをも愛さない人生って、可能でしょうか?
そういう人生を選びたいでしょうか?
要約すると「愛生経」はこんな中身です。
(青字は、『原始仏典 中部経典Ⅲ』春秋社、87経・田辺和子訳の引用)
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ある資産家が愛する一人息子を亡くしました。
資産家は食事ものどを通らないほど悲しんで、
あるときお釈迦さまの横に座りました。
お釈迦さまが「どうかした?」と訊くと、資産家は息子が死んだこと、
「一人息子よ、どこにいるのか?」といって、火葬場に行っては泣いている
と打ち明けます。
それに対するお釈迦さまの発言。
「それはその通りです。資産家よ。なぜなら、憂い、悲しみ、苦しみ、
嘆き、悩みは、愛より生じ、愛が引き起こすものなのですから」
これに資産家は反発します。
「愛より生じ、愛が引き起こすものは、喜びと楽しみです」
と言って、お釈迦さまを「非難して席から立ち去った」。
そのとき「多くの博徒たちが世尊の近くでさいころで遊んでいた」ので、
資産家は博徒たちに、ことの顛末を話します。
すると博徒たちは資産家に賛成して、
「喜びと楽しみが愛から生じ、愛の引き起こすものなのだよ」。
なんでお釈迦さまの横でサイコロ賭博をやってるのか不思議ですが、
ともかくそういうわけです。
この議論が王宮に次々と伝わっていって、
コーサラ国のパーセナディ王が、マッリカー王妃に声をかけました。
「修行者ゴータマが、こんなことを説いたそうだよ」。
王妃はお釈迦さまの大ファンだったので、
「世尊が説かれたなら、その通りです」と答えたところ、王様は大激怒。
「そなたは、いつもいつもゴータマが説いたことは正しいといって、彼に従う。
おい、こら出て行け、マッリカーよ、消えうせろ」。
どう見てもヤキモチですな。
このマッリカー王妃は他のお経にも出てきくるのですが、
王さまに負けちゃいない堂々たる女性なのです。
王妃は、あるバラモンに頼んで、お釈迦さまの真意を確かめにいってもらいます。
(漢訳「中阿含経」だと、王さまに「自分で尋ねてこい」と言って
自ら行かせるそうだから、ますますカッコいいですね)
バラモンにお釈迦さまが話した内容は、こうでした。
「バラモンよ、憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みは、
愛より生じ、愛が引き起こすというようなこと、そのことは
この理由によって知るべきである。
昔、バラモンよ、じつにサーヴァッティーのある婦人の母が死んだ。
彼女は母親が死んだことから気が狂い、心が乱れて大通りを通って大通りに、
四辻を通って四辻に近づいてこういった。
『もしかしたらわたしの母を見ませんでしたか、もしかしたらわたしの母を
見ませんでしたか』と」
同様に、父や兄弟や子供が死んで狂った人の例を、お釈迦さまは挙げます。
また、引き離されそうになって無理心中した夫婦の話もします。
バラモンからこの話を聞いたマッリカー王妃は、パーセナディ王に、
「愛するからこそ、失ったら憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みが起こる」
ということを納得させます。
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以上が、お経のストーリー。
パーセナディ(波斯匿王)がお釈迦さまの教えでダイエットに成功した
という話がやたら中国で流通しているらしい。雑阿含経にあるらしい。
事実として、お釈迦さまの言うことは圧倒的に正しいと思います。
愛が5なら、失った苦しみも5。
上記の「愛=喜び」と「愛=苦」は、同じことなんですよね。
そして、時の経過で、あるいは死によって、愛する人・ものを失うことは確実です。
美味しいものを5万円分食べたら、必ずあとで5万円分の請求が来るようなもので、じゃあ請求をゼロにしたければ食べなきゃいい、
苦しみを無くしたいなら初めから何ひとつ愛さなきゃいいわけですよね。
だけど、そんな人生、お断り!
仏教外の人なら、当然そう言うでしょう。
わたしの中でも、うまく着地できない部分だったのです。
今回の「愛生経」で、つらつらと自分なりに考えたりして、
自己流なので全く責任持てませんが、今の段階ではこんなふうに思います。
愛の喜びと苦はコインの裏表というか、同じものが形を変えただけ。
でもやっぱり男やら猫やら音楽やら、いろいろ愛して生きてしまいました、と。
それでも別にいいわけですよ。
お釈迦さまが怒って「教えを守らなかったから、村ごと洪水で流すぞ」
という宗教ではないですから、誰に迷惑がかかるわけでなし、
自分があとで勝手に苦しむだけの話です。
たとえば私が性懲りもなくどっぶり愛した男がいたとして、
その人が急に死んで、予定どおりの苦しみがやってきました。
お釈迦さまの教えはムダになったのか? いや、そんなことはない!
<お釈迦さまの教えを知らない「私」の想像図>
ああ、なんで彼は死んでしまったの?
あの楽しかった日々は、どこへ行ってしまったの?
一人ではさびしい、耐えられない、
何も悪いことをしていない私や彼がこんな目に遭うなんて
もう嫌だ、何もしたくない、と半狂乱
<お釈迦さまの教えをかじった「私」の想像図>
ああ、彼はこんなに早く死んでしまった。
いつかくるものだと知ってはいたけれど、やっぱり辛い。
でも死に理由などない、理由を探すのはやめよう。
あの楽しかった日々と同じだけの苦しさが、今やってきた。
この苦しみは、愛おしさとの引き換えだ。同じものだ。
だったら仕方ない、胸をはって苦しみを引き受けようではないか。
・・・なーんて、こんなにうまくいきますかどうか。

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