すべてを捨てて人は逝く(中部第82経「ラッタパーラ経」)
本日は「中部経典」第82経「ラッタパーラ経」(頼咤和羅経)。
81経の極貧在家信者、陶器職人のガティカーラとうって変わって、
82経のラッタパーラは大資産家の一人息子です。
かわいい一人息子が、お釈迦さまに会って、出家すると言い出したから、もう両親は半狂乱。
「安楽に育まれてきたおまえは、いかなる苦も知らない。
さあ、食べなさい、飲みなさい、遊びなさい」といって、
快楽で息子を引きとめようとします。
ですが、息子が地面につっぷして「出家するか死ぬかだ」というので、
最後には両親も出家を許します。
で、しかるべき期間、修行して教えを体得してから、
その姿を両親に見せるべく里帰りする、というお話です。
面白いのは、お釈迦さまの教団は、親の同意がなければ出家者を
受け入れないと律で決まっていたんですね。
ラッタパーラが「出家したい」と申し出たとき、お釈迦さまは
「両親の許しを得てきなさい」と答えるのです。
それから、実家との行き来も、意外と自由にできたようです。
ラッタパーラ里帰りしたい、と申し出たときも、
もうこの子は卑俗に戻ることはない、と判断したお釈迦さまは
「いまがそのときだとあなたが思うなら、そうしなさい」
といって許可しています。
よく新興宗教で、出家した子供を取り戻そうと、親が必死になる
ような話があります。
ですが、お釈迦さまの教団は、親を敵に回して世間から非難されるような
ことを避けるべく、周到に運営されてたんですねー。
お経の後半は、ラッタパーラとコーラヴィア王との対話です。
コーラヴィア王は、シニカルに「出家するのは、しょせんは惨めなやつら」
だという話をします。
年寄りか、病人か、財産を使い果たしたか、親族がいないかで、
もう何も楽しいことがないヤツが出家するんだろ?と。
対してラッタパーラは、「いや、お釈迦さまの4つの教えを聞いて、私は出家したんだ」と反論します。
彼が王に説明した4つの要約が、短いながら、すごい普遍的。
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「世界は(人は)恒常ではないものとして(終わりへ)連れ去られていく」
「世界は無庇護なものであり、最高支配者を持たない」
「世界は自己のもの(所有物)を持たない。すべてを捨てて(人は)逝かねばならない」
「世界はいつもなにかが欠けているものであり、(人は)満足が持てない、
渇愛への隷属者である」
『原始仏典 中部経典Ⅲ』(春秋社)第82経 岡野潔訳
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2500年後の今考えても、まったくこの通りでしょう?
そのあとラッタパーラが吟じた詩も、いいんだよなぁ。
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「わたしは世間にいる財産もちの人間たちを見る。
富を得ても(所有の)幻惑ゆえに、布施しない。
貪欲なかれらは、財産をため込み、
さらにいっそう欲望(の対象)を得ようとする。
王は力づくで大地を征服し、
海に囲まれた(全)地を住処となしつつも、
海のこちら側にあって満足できず、
海の向こう側をも、得ようとするだろう。
王もその他の人間たちも、
愛執を離れることができずに、死へおもむく。
なにかが欠けているかのよう(に不満足)なまま、
(空しく)肉体を捨てる。
なぜなら世界においては、欲望(の対象)に満足は見出せない。
親族たちは髪をふり乱し、かれを泣いて悼む。
「ああ、わたしたちにとって、なんということ!
かれが死んだなんて!」という。
かれを衣で覆い、(郊外に)運び出し、
薪を積み上げて、それから(遺骸を)燃やす。
かれは串に刺されたまま、焼かれるであろう。
一枚の衣だけを所有し、(あらゆる)享楽を捨てて。
死にゆく者にとって、この世の親族・友人・仲間たちも
(業報からの)避難所とはならない。
相続人たちはかれの財産をもち去る。
生けるものは業のままに去り行く。
どんな財産も死にゆくものにはついて行かない。
子供たちも妻も、財産も領土も。
(以下略)
(出典:同上)
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