大原問答―法然さんの勝利宣言(京都大原・勝林院その2) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

大原問答―法然さんの勝利宣言(京都大原・勝林院その2)

昨日の続きです。
全然知らずに行ったのですが、
京都・大原の勝林院は「大原問答」の舞台とされています。
平家滅亡の翌年、文治2年(1186年)に、
浄土思想をめぐる法然VS他宗派陣の問答合戦が行われたというのです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
拡大すると「大原問答」と書いてあります


以下は、勝林院のリーフレットの要約です(出典は書かれていませんでした)。


==================================

そのころ大原に籠居していた天台座主の顕真が「生死の出でがたきこと」、
つまり涅槃に達するのは難しいと嘆いて、法然に相談をしました。


法然は「ただはやく往生をとげ候うべし
「成仏はかたしといえども往生は得やすし。
道綽・善導(2人とも中国の浄土思想を確立した僧)の心によれば
仏の願力を強縁として乱想の凡夫、浄土に往生す
」と答えました。

つまり、生存を完全に滅する涅槃に達するのは難しいけれど、
その前段階である「往生」=来世浄土に生まれ変わることは簡単です、
という中国の新説を紹介したわけですね。


ではその浄土の講義をみんなに聞かせてくれ、ということで
法然を大原に呼び、各宗派の名だたる坊さんを集めて
問答が行われたのです。1186年の秋のことです。

法然は、当時の各宗派(法相・三論・華厳・天台・真言など)の
修行法を詳しく述べたあと、言いました。
どれもこれもやってみたけど、難しすぎてムリ!」と。
(「源空(法然自身)ごとき衆愚のたぐいはさらにその器にあらざるゆえ
悟りがたく惑いがたし」「源空発心ののち、聖道門の諸宗につきて
出離の道を求むるに、かれもかたく、これもかたし」)


そして、善導が教えるように、阿弥陀如来の願力を頼んで
ひたすら南無阿弥陀仏(お願い、阿弥陀さま!)と唱えれば、
有智無智を論ぜず、持戒破戒を選ばず」往生できると説きました。


何の努力もせず念仏だけでOKなんて簡単な話があるか!?と、
各派の高僧たちは当然反発して、さまざまな問いをぶつけますが、
法然は一昼夜それを論破して、最後にはみな説得されていました。
・・・と、ここらあたりから”伝説”めいてくるのですが、
法然が正しいという証拠に
勝林院の阿弥陀仏がまばゆい光を発したそうです。
そして各宗派そろって三日三晩「南無阿弥陀仏」を唱える声が
大原の山林にこだましました、とさ。

==================================


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「大原談義纂述鈔」。古書店のサイトにありました。


この大原問答伝説がどこまでが史実かは知りませんが、
有力者だった法然が『選択本願念仏集』(1198年)を著したことは
実際に大変なインパクトと反発を招いたそうです。
それ以前も、浄土とか念仏というのはあったけれど、
「念仏だけでいい」と法然が宣言したわけです。
他宗が激怒して反論本を書いたりもしています。


そりゃそうですよね。
例えばみんなが「ダイエットには正しい食事と筋トレ」を推奨してるとき
「テープ巻くだけダイエット」を出されてしまったら、
大衆は楽なほうになびくに決まってます。
しかも、「涅槃=2度と生まれずに完全消滅できる」というご褒美と、
「往生=来世に素晴らしく幸せな楽園に行ける」というご褒美なら、
普通は後者のほうに心引かれますよね。


末木文美士先生は以下のような疑問を呈しています。

==================================
実を言えば、『選択本願念仏集』の論法は必ずしも十分に説得的とは言えない。
確かに従来従属的にしか見られなかった念仏に大きな光を当てたことは
画期的なことであった。しかし、念仏が本当に諸行より勝れているかというと、
なかなかそうは納得できない。念仏以外の行だっていいはずだ。
(中略)
法然は、念仏往生の根拠を弥陀の十八願(無量寿経)に求める。
ところが実は往生の方法を述べた願は別にもある。
それは第十九願と第二十願である。
(中略、さまざまな功徳を積む、念仏以外の行が述べられている)
だが『選択集』では、そのことはまったく触れられていない。
このように『選択集』では浄土念仏の立場を確立することに専念して、
正直いってかなり強引なところがある。


            末木文美士著『仏典をよむ』(09年、新潮社)
==================================



勝林院に行った翌日に浄土宗総本山の知恩院に行きまして、
たまたま朝の法話を聞くことができました。
そこでは、こんなふうなことを言ってました。
「それ以前の仏教は、出家できる人や、お金持ちや、頭のいい人が対象でした。
 文字も読めない庶民、物乞いや、女の人は、対象外だったのです。
 そこで法然上人は、長い長い修行の結果、
 <誰でもいつでもどこでもできる修行はお念仏だ>ということに到達したのです」


でも、念仏以外にも「1日1つ、善いことをしましょう」ぐらいの教えなら、
俗世にまみれた庶民にだって、できたんじゃないですかね?
それを「南無阿弥陀仏」ひとつに絞った法然さんの勝利というべきか。
小泉純一郎のワンフレーズ・ポリティクスじゃないですが、
<大衆が覚えられる言葉は一つだけ>ということを
法然さんは見抜いていたのかもしれません。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

法然上人(東京 龍寶寺蔵)


ただ一方で、それ以前の日本仏教界が、庶民と遠かったことはあるんでしょう。
三論宗と法相宗はややこしい教義バトルをしているし、
天台・真言は山にこもってるし、寒村の農民と仏教とは接点がなさそう。
しかも1181年には旱魃で大飢饉が起こって、
京都を含む西日本の路上は死屍累々、ソマリアみたいな状況だったそうです。
いままさに餓死しようとする人が、薄れる意識のなか「南無阿弥陀仏」と唱えて
安らかに死んでいけるなら、それで充分じゃないか、という気もします。
好きではないけど否定しきれない、という心境です。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村