死は体験できるか続編(中部38経「サーティの誤解」)
先日、「自分の死は体験できない」=「あ、俺は死んだ」という主観は
持ちようがない、ということを気軽に書きまして。
「それは断見(人が一度死ねば死滅して2度と生まれない)ですか?」
という書き込みを頂いて、んー?と考えました。
(あ、書き込んでくれた方に議論を吹っかけてるわけではありません、
自分で書いておいてよくわかってなかったんです)
考えてみて、どうやら断見とは違うようだ、と思いました。もっと手前というか。
死ぬギリギリまでは「痛い」「息ができない、もう死んじゃう」などと感じるけれど、
脳と心臓が止まって死んだら、
眼・耳・鼻・舌・身・心の、全感覚器官がストップしますよね?
というか、それを「死」と呼ぶわけですよね。
すると、何も感受できなくなるから、「俺、死んだ」という意識はどう起こるのか、
起こりようがないでしょう、というような意味で書いたのでした。
そしたら、たまたま今読んでる「中部経典」第38経が、少し近い話でした。
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中部 第38経「シャ(口偏に茶)帝経」―サーティの誤解 (抜粋)
漁師の子のサーティという修行僧に、つぎのような悪しき見解が生じた。
「わたしは世尊によって説かれた法をこのように理解します。
すなわち、この意識だけは、流転し、輪廻するが、別のものにならず不変である」と。
それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼んで問答をします。
世尊「サーティよ、その意識とはどんなものですか」
サーティ「尊い方よ、それは、語るものであり、感受するものであり、
ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
世尊「そんなことをわたしがいったいだれに説いたというのですか。
わたしは種々なる法門によって、縁によって生ずる意識を説いたのでは
なかったですか。すなわち『縁がなければ意識の生起はない』と」。
世尊「およそ、それぞれの縁によって意識が生ずると、
それはそれぞれによってそれぞれの名で呼ばれます。
すなわち目と色かたちあるものによって意識が生ずると、それは眼識と呼ばれます。(以下、耳ー声、鼻ー香り、舌ー味、身ー触れられるもの、と続き)、
心(意)と思考の対象たるもの(諸法)とによって意識が生ずると、それは意識と呼ばれます」
「修行僧たちよ、これ(五蘊※)は生じたものであるとみますか」
「はい尊い方よ」
「修行僧たちよ、それを食(接触など)に縁る生起であるとみますか」
「はい尊い方よ」
「修行僧たちよ、その食が消滅すると、およそ生じたものは消滅するものであるとみますか」
「はい尊い方よ」
「修行僧たちよ、このように知り、このように見るとき、
あなたがたは過去にむかって逆行することがありますか?
すなわち、『わたしたちは過去に存在したのであろうか、過去に存在しなかったのであろうか、
わたしたちは過去になんであったのだろうか、過去にどのようであったのだろうか、
過去になんであって、そののちになにになったのであろうか』と」
「それはありません、尊い方よ」
(「過去」を「未来」に入れ替えて、同様のことを説く)
※註 (言わずもがなですが引用しときます)
「人間は5つの集まり=色・受・想・行・識=が仮に集合してできているにすぎず、
したがってこの個体存在には我という執着するような実体がないことを説明するためのモデルが五蘊説といわれるものである」
『原始仏典 中部経典Ⅰ』(春秋社)より
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つまり、全感覚器官がストップすれば、意識は生起しないので、
「あ、俺は死んだ」と意識しようがない。
色・受・想・行・識がストップすれば、その集合体である「我」は消散してしまうので、
「あ、俺は死んだ」と思う”俺”がそもそも存在しない。
38経を素直に読むかぎり、そういうことではないでしょうか。
これは現代人から見ても、全く違和感のない話ですよね。
ですが、これと断見(一度しか生きない)とは土俵が違う話だと思います。
仏教で輪廻は繰り返し説かれているので、
何度死のうとそのたびに我は消滅する、連続した意識はない――
ということを上記のお経は書いているのではないでしょうか。自信ないけど。
ただ一方で、禅定によって「過去の生をこと細かに知る(思い出す)」ということも
繰り返し経典で説かれていますよね。
意識が連続しないのに過去生の記憶がどこに貯蔵される(と仏教では考えいてる)のか、そこはまだ私も理解できていません。
このことは玄人が山ほど議論して山ほど書き物があるはずなので、
素人談義するのはやめておきます。
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