死にそうな人を見舞って | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

死にそうな人を見舞って

親戚が死にそうだというので病院に見舞いに行ってきました。
もう90歳近く、病というより老衰で、身体の耐用年数が
切れかけているという感じでした。


栄養は点滴で、排泄もチューブで、
少しだけ意識はあったけれど、すぐに眠ってしまいました。

おそらく、眠ったまま、もうじき逝ってしまうと思います。

苦しむよりはよいけれども。

当人の主観としては、どうなのだろう。
当人としては眠っているのが、ある時点で脳と呼吸が停止して、
周りが「死んだ」と決める、ということでしょうか。


人は絶対に自分の死を体験することができない。
そのことを最近考えます。
俺様を芸風とする佐々木中氏(専攻は哲学、理論宗教学)が
『足ふみ留めて アナレクタⅠ』内の講演録で、
しきりにこのことを言っていました。
自分の死体を見られる人はいない、
「あ、俺は死んだ」と確認できる人はいない、
人類はいずれ滅亡するけれど、それを確認できる人類もいない、と。
(輪廻の件は、ここでは置いておくとして)


もちろん他人の死は絶対に体験できません。
そのうえ自分の死も体験できないなら、
人は死亡率100%なのに誰も死を体験できないことになります。


仏教学者の末木文美士先生も、
似たようなことを書いていたなあ。
長年、「死」ということを考えてきたけれども、
死んだこともないので、どうもうまく捉えられない。
それで「死」でなく「死者」というふうに捉えなおして、
生きている自分と死者との関係性を考え始めたところ
いろいろなことが見えてきた、みたいなことを。


私はこれから眠るけれども、明日、目が覚めるのかしら。



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足ふみ留めて---アナレクタI (アナレクタ 1)


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