苦行を捨て瞑想を選ぶドラマ(中部36経)
昨日の続きです。
苦行で死にかけたお釈迦さまが、これでは悟れない、と思って
苦行を放棄し、菩提樹の下で瞑想をして悟りを得た――
というのはよく知られている話です。
でも「苦行でなく瞑想だ!」と思った経緯は、どんなだったのでしょう?
「中部経典」第36経「マハーサッチャカ経」に、
以下のような、興味深いことが書いてありました。
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アッギヴェッサナ(=異教徒サッチャカ)にお釈迦さまが話したこと。
誰よりもすさまじい苦行をしたのに、最勝智見が得られない。
「さとりにおもむく道が他にあるのだろうか」と、
お釈迦さまは考えました。
「アッギヴェッサナよ、わたしは次のように思ったのです。
『しかしわたしは、釈迦族の父(浄飯王)の種蒔祭のときに、
涼しいジャンプ樹の木陰にすわり、欲望をすでに離れ、不善のことがらを離れ、
粗なる思考と微細な思考をまだ伴ってはいるが、
遠離によって生じた喜楽のある初禅(※)を成就して住んだのをよく覚えています。これがじつにさとりにおもむく道ではなかろうか』と」
「アッギヴェッサナよ、わたしは次のように思ったのです。
『いったいわたしは、もろもろの欲望とはまったく別の、
不善のことがらとは別の安楽である、その安楽を恐れているのか?』と」
「『このようにひどく痩せ細った身体では、かの安楽をうるのは容易ではない。
さあ、わたしは粗食をもとめ、米のかゆをとってみよう』」
※「初禅」の註
K.R.ノーマン博士によれば、当初すでに四禅定の階梯はできていて、
この樹下観耕での瞑思が初禅にあたることを、ブッダは出家後に知り得た
瞑想の階位に照らして、そのように了解したのであるとする。
『原始仏典 中部経典Ⅰ』(春秋社)第36経「マハーサッチャカ経」
訳:平木光二氏
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ブッダガヤの菩提樹。そのうち絶対に生で見にいく!
このお経を素直に読めば、
お釈迦さまは俗世を捨てて身体を痛めつけて命の限界に達したとき、
ふと思い出したのは、王子だった頃に経験した、
涼しく気持ちのよい樹の下で得た”あの感じ”だった。
”あの感じ”は、もしや悟りへの入口だったのでは?とひらめきつつ、
苦行を捨てて、あの安楽を肯定することに恐れを抱いてもいるのですね。
そりゃそうですよね、
その安楽は、リッチだった王子時代にパパの種蒔祭で得た経験なのですから。
しかしお釈迦さまは、そこにチップを張って、賭けに勝ちました。
真理(四諦)を悟ったお釈迦さまは、
「こんなことは、誰にも理解されない」と思ったけれども、
梵天さんに「まぁまぁそう言わずに説いてみなさい」と勧められ
(という伝説のもとに)、他人に説いてみようと思います。
第26経「聖求経」によると、まずは元の師匠に話してみようと思って、
たずねていったそうなんですね。
ところが、元師のアーラーラ・カーラーマは7日前に死んだ、
元師のウッダカ・ラーマプッタは前の晩に死んでしまったと。
では誰に説けばいいのか?
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「『わたしはいったいだれに対して最初に教えを説くべきであろうか。
だれがこの教えをたちどころに理解するであろうか』と。
そこで修行僧たちよ、わたしはこう思った。
『五人の修行僧たちは、みずから努め励んでいたわたしを援助し、
よく仕えてくれた。さあわたしは五人の修行僧たちに最初に教えを説こう』」。
その五人は、お釈迦さまが苦行を放棄したのに失望して、
去ってしまっていたのです。
五人はいまどこにいるだろう? どうも鹿野苑にいるらしい、と赴きました。
ところが、やってくるお釈迦さまを見て、五人はこう話したのでした。
「友よ、あの沙門ゴータマがやってくる。
かれは贅沢で、努力を捨て、奢侈におちいった。
かれを礼拝してはならない」
第26経「聖求経」 訳:羽矢辰夫氏
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「シッダッタはボンボンだから、しょせん苦行とか無理だったんだよね」
みたいなことで、この5人はいっぺん去っていった人なのです。
ところがお釈迦さまは、自分から去っていった昔のつてをたどって、
ダメもとで、こんな真理を悟ったんだけど・・・と話したわけですから、
相当捨て身の覚悟だったと思います。
(どんなことでも、いっぺん切れた昔のつてをたどるって、辛いでしょう?)
ですが5人のうちの1人、アニャー・コンダンニャ(阿若)が
お釈迦さまの話を聞いて、最初に「わかった!(アニャー!)」と叫び、
あとの4人も次々に理解したのでした。
初転法輪にも、このようなドラマがあるわけですよねえ。
禅僧・南直哉さんは、
「(アニャー・コンダンニャ)が『わかった!』と言った瞬間が、
お釈迦様の人生の頂点だったのではないか。『あ、通じた』という。
それ以降は、何も面白いことなかっただろうなと思います」
みたいなことを『サンガジャパン』の対談で言ってました。
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