「空」がちょびっとわかったかも(『空と無我 仏教の言語観』)
『インド宇宙論大全』を買ったとき、著者が同じでアマゾンで出てきたので
一緒に買ってみた『空と無我 仏教の言語観』(定方晟著、講談社現代新書)。
本日、ハンパに時間が空いたので読んでみました。
いやあ、面白かった。3時間ぐらいで読めましたし。
わたくし今まで「空」がピンと来なかったのです。
それが、少しわかった気がします。
今まで『般若心経・金剛般若経』(中村元著・岩波文庫)、
『龍樹』(中村元著・岩波文庫)、『縁起と空』(松本史朗著・大蔵出版)を
読んだにもかかわらず、よくわからなかった「空」。
これらの本にもきちんと書いてあったはずですが、
機が熟さないとわからない程度の脳みそのせいで、
今日の『空と無我』でやっと時が巡ってきたようです。
(以下、素人考えで書いてて
恐ろしいコメントをいっぱいもらいそうな予感もしますが)
================================
まず、歴史的に見れば、”Back to 釈尊”なわけですよね?
バラモン教ではātman(アートマン)、永続する自我・魂のようなものがあるとした。
↓
お釈迦さまが「そんなものはない、そんなものに執着するのが苦しみのもとだ」
と悟って「an-ātman(無我)」を説いた。
↓
「我」という実体がないことを説くうえで、六根(眼耳鼻舌身意)や
五蘊(色受想行識)という構成要素に分解して解説した
↓
ところがお釈迦さまの死後、(定方先生曰く)”愚か者の弟子”たちが、
六根や五蘊などを恐ろしく細かく分析して、世界を構成要素に分解し、
各要素は「(恒常普遍に)ある」と考えた(説一切有部の五位七十五法)
↓
でもさ~、お釈迦さまは「ない」と言ったんじゃないの?
と考える人たちが、一連の般若経典を執筆した(紀元前後)。
「ない」ことを「空」という、より強い言葉で表現した。
↓
論争の天才・龍樹が登場し(150~250年頃)、
『中論』で「空こそお釈迦さまの真意である」として
説一切有部的な「ある」論者を徹底的にやっつけた。
===============================
龍樹さん。伝説によると、若い頃、悪友と4人で薬で透明人間になって
ハーレムに侵入し、手当たり次第に女を犯して妊娠させ、殺されかけた。
やんちゃだなー。
定方先生は、この本のなかで、
「AはAにあらず、ゆえにAという」(金剛般若経)や、
「行くものは行かず」(中論)が何を意味するかを、
言語学・文法論からとても合理的に説明してくれます。
龍樹らが批判したのは、
つまり「言語(概念)の実体視」なのだと著者は言います。
そもそも大乗仏教の人たちが「空」とか言い出したのは、
「言葉に対する直観的な不信からであろう」と。
たとえばいま目の前に、
なんかモゴモゴ移動してる4本足の柔らかいものがいます。
世界はただそのように放り出されているだけなのですが、
生活を便利にするために人間は「言葉」という道具を発明し、
「猫」が「行く」という記号に分割して表しました。
いっぺん名前をつけると、抽象的な「猫」が抽象的な「行く」
という行為を選択する=「猫」「行く」が
独立して存在するように錯覚(実体視)してしまう。
左のが「猫」なら、全然ちがう右のが「猫」のはずはない。
(左の)猫は猫ではない、ゆえに(右のも)猫という。
「我」とか「色受想行識」についても、
名前をつけたがゆえに「ある」と思ってしまうのは、
お釈迦さまの思想と逆じゃありませんかね?
ということを言っているわけですねー。
『中論』があんなにわかりにくいのは、
言葉の限界を言葉で説明するという荒業だからなんですね。
般若経一派いわく
説一切有部=「我空法有」(我はないが、法=要素的存在はある)
般若経一派=「人法二空」(我も法も存在しない)
「無我は『法は存在する』という誤解を生む危険性を有していたが、
『空』はそれを排除した」(by定方先生)。
結局「空」とは、お釈迦さまの「諸行無常、諸法無我」と同じ、
と私は思ったのですが、その理解で合ってます?
一方で、「空」をめぐる大きな誤解の例も挙げられています。
・「空=外界に何も存在しない、すべて心・脳が生んだ幻である」という誤解
・「空=言葉で説明できない神秘的な境地である」という誤解
うん、ありがちですね、こういう誤解。
私も今まで般若経典や『中論』で煙に巻かれたように感じましたが、
今から読み直せば、その凄さがわかるかも。
ちなみに、この本『空と無我』では、
華厳経・密教への批判、唯識論への批判、神秘主義への批判も書いてあり、
膝を打つこと数十回。ですが、異様に長くなったので本日はこれまで。

にほんブログ村