天に生まれてもやっぱり人は堕落する (「世記経」忉利天品2)
本日も『現代語訳 阿含経典 長阿含』(第6巻)より。
「世記経」忉利天品の後半(同書では二)は、なかなか面白かったです。
輪廻輪廻といいますが、どうやって生まれ変わるの?と思うじゃないですか。
忉利天品にはこんなふうに書いてあります。
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ある人が善いことをすると
「死んで、この世で最後の<識>が消滅すると、
天界における最初の<識>が生じ、識を原因として
<名>と<色>が起こり、<名>と<色>を原因として
<六入>が備わるのである」
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地獄もまたしかり。
目が覚めたらまず地の海が見えてくるのではなくて、
目が覚めたら「あ、地獄に生まれた」という意識が
立ち上がってくるという感じでしょうか?
もっと具体的にいうとこんなふうです(天に輪廻した場合)。
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生まれたばかりの天神は、人間界の1~2歳のようで、
「自然に神変によって出現して、天神のひざの上に座っている。
そしてかの天神がすぐさま<これは私の子供だ>と言う。」
なんと、わたしたちは赤ちゃん状態で、突然ポンッと、天神のひざの上に
現れるんですって。地獄だったら、鬼獄卒の膝の上?いやだなあ。
その子は、自然に智慧が生じて、すぐさま、
「私は過去にこういう善いことをしたから天界に生まれた」、
「ますます努力して善行を修めるだろう」と思います。
で、空腹を覚えると
「ちょうどその子の前に自然の宝玉の器が現れ、
それには種種の美味が備わった自然の清らかな食べ物が
盛られている。もし幸いが多ければ、その飯の色は白であり、
幸いが中くらいであれば青であり、幸いが少なければ赤である」。
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へえ、お赤飯が一番、幸が薄いんですね。
でも、この色の順位は、ほかのお経では違うこともあるそうです。
また、喉が渇くと、また自然に飲み物が出現して、
これらを消化してあっというまに大人の大きさに成長して、水浴びをしたり、
身を飾ったり、楽器を弾いて歌ったり、庭園で天女たちと戯れたりします。
いやあ極楽極楽、前世で善行を積んだ甲斐があったよ、
と思えば、ここからが最高です。
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「しかし、かの天神は、遊びまわってるうちに、
あちらを見ればこちらを忘れ、こちらを見ればあちらを忘れ、
どんどん執着心を起こしていく。」
生まれおちたときは、かの善行によって天に生まれた、と
「自ら思念することをわきまえていたけれども、
遊びほうけて眺め回している時に、
この思いをすっかり忘れ去ってしまったのである。
かくして侍女を侍らすようになっていく。」
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なんと、せっかく天に生まれたのに、
わたしたちは性懲りもなく堕落してしまうんです。
「古代インド人は人間というものをわかってらっしゃる!」と感心してしまいます。
遊びほうけた挙句、たぶん来世は人間界か畜生かなんかに
差し戻されてしまうんでしょう。
おどろおどろしい六道輪廻図
天に生まれても堕落する。
地獄に堕ちても罪が尽きれば天に行ける。
インド人が考えた輪廻は、右肩上がりではなくて、
永遠のゴールのない迷宮のようなものなんですよねえ。
あ、それで今思ったのですが、
お釈迦さまは「輪廻は苦だから、もう2度と生まれたくない」
ということで涅槃を目指すわけですよね。
「天に生まれたらハッピーなのに、そんなに苦かしら?」と思いがちですが、
また人間や餓鬼に落ちたり、また頑張って天に行ったり、また地獄におちたり、
そんな無限輪廻は確かに「苦」だわ。しんどいですわ。

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