死の恐怖(ミリンダ王の問い6)
『ミリンダ王の問い』第2巻では、
ギリシャのミリンダ王が執拗に「仏典内の矛盾」を指摘してきます。
釈迦はAと言ってるが、Aではないとも言ってる、どちからはウソなのか?と。
たとえば「第二編第二章 死の恐怖」。
「すべての者は刀杖(の罰)を怖れ、すべての者は死を怖れる」
(ダンマパタなど)とお釈迦さまは言っている。
でも一方で「阿羅漢はすべての恐れを超越している」とも言っている。
これは矛盾するではないか?と王は突っ込みます。
ナーガセーナ長老の答えは、
「すべての者は死を怖れる」とは「阿羅漢を除くすべての者」の意味だ、と。
すると王は、より本質的な問いを発します。
「地獄にいる者も死を怖れるのか?」。
地獄で逃げ場のない炎つ包まれて苦しみ号泣している人は、
なぜ死を怖れるだろうか?
「死は苦しみから彼らを救うものなのに」つまり死んだほうがマシなのに。
すると長老は、
「腫瘍ができて病に苦しむ人が、医者に行ったとする。
医者が、彼を切開するための鋭利なナイフやら針やらを用意しはじめたら、
治療のためと知っていても恐怖するでしょう?
苦しみから逃れるためでも、別の苦しみの感受するのが怖いから、
死への恐怖が生じるのです」と答えます。
どうですかね? わかったような、わからないような。
実のところ私は、仏教において「死」がどういう位置づけなのか、
いまひとつわからないのです。死を恐怖するのか、待望するのか。
「涅槃=2度と生まれなくていい=最後で永遠の死」ですよね。
涅槃が最大の目標だというのは「死の待望論」なわけで、
「これは奇妙なことである」と末木文美士先生も書いてましたね。
しかも現代の私たちは、永遠の死こそが恐怖で、
できることなら生まれ変わりたいと、逆の願望を持つわけで。
「永遠の死のために頑張ろう」と言われても、乗り気になれないわけです。
それから、善い行いをすると、
来世は天に生まれたり良い報いがあるといったって、
生まれ変わること自体が仏教的には「苦」なわけですよね。
業のエネルギーが消滅して生まれ変わらない=涅槃が最高であって、
善行を積んで良い来世が来ちゃうのも”失敗”です。
これは、佐々木閑先生の本にあって、
宮崎哲哉氏が「鋭い指摘」みたいに話してましたね。
まぁ、このへんが解決しなくても、
安らかに生きたい・逝きたいという願いに仏教は十分答えてくれるので
実践的には別にかまわないのですが。
『ミリンダ王~』の、この章のなかで、
ナーガセーナ長老がいいことを言ってます(死とは関係ないけど)。
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大王よ。意味は次の5種類の方法によって認められるべきです。
すなわち、
(1)引用句(スッタ=ブッダの説いた経典)により、
(2)内容(スッタの意味内容に適合すること)により、
(3)師伝(師の説)により
(4)思量(自己の見解)により
(5)根拠の妥当性(これらの4つが結合したところの根拠)により
大王よ、これらの5つの根拠によって、意味は認められるべきです。
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これは私が思うに、「仏典の言葉尻だけを捉えるな」ということではないかな。
原始仏典であっても、口伝だし記憶だし後で付け加えたものもあるし、
シロートの私が読んでも矛盾はいくらでも発見できます。
それをいちいちミリンダ王に指摘されて、ナーガセーナ長老がブチ切れたのかな。
いずれにせよ、仏典の言葉尻だけではなく、
全体の意味内容・自分の見解も含めて、妥当性を精査せよ、
という態度は、仏教らしくて素晴らしいと思いました。

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