音楽に感動するのは煩悩か『音楽嗜好症 ミュージコフィリア』 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

音楽に感動するのは煩悩か『音楽嗜好症 ミュージコフィリア』

お釈迦さまは「六根をよくコントロールせよ」と繰り返し問いています。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜつしんい)の感覚器官。
コントロールできないと、
「自分がブサイクだから悩む」(眼根)とか「入ったラーメン屋が不味くて怒る」(舌根)
とかいった、どうでもいい苦しみが増えるからです。


顔そのものにはブサイクも美しいもない、味そのものには不味いも美味いもない
六境(感知する対象)そのものはニュートラルなものであって、
それが眼や舌を通じて脳(六識)が「醜い」「不味い」と認定するだけのことだと。
そんな幻のようなもので悩んだり怒ったりするのは愚かなことだと。


この捉え方は、現在の認知脳科学とかに照らしても正しいし、
さすが我らがお釈迦さま!と感動するわけですが、
本日は「耳根・耳識」の話です。


◆なぜ無意味な音のパターンに感動するのか◆


私たちは、何かの音楽を聞いて歓喜したり泣いたり躍り狂ったりします。
たとえばブルースのコードは、人類のかなりの割合が気に入っていますし、
ビートルズが「うちの民族にとっては吐き気がする旋律」だという話は
聞いたことがありません。
逆に、全く知らない地域や時代の音楽にも感動することはよくあります。

一方で、ある不協和音が、金属的な音色で奏でられたりすると、
たぶん人類のかなりの割合が「堪えられん」と思うのではないでしょうか。


これって、不思議な仕組みだと思いませんか。
音のパターンそのもの(声境)には何の意味もないのに、
なぜ耳識はそのように感知するのでしょう?


そのことをテーマにした本が出て、大喜びで読んでおります。
『音楽嗜好症 ミュージコフィリア』(オリヴァー・サックス著、早川書房)

という本です。著者は「レナードの朝」などで知られる精神科医。


音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~



同書の「まえがき」には、こうあります。

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種全体―ー何十億という人間ーーが、意味のない音のパターンを奏でたり
聴いたりしているのは、見ていてなんとも奇妙なものだ

みんなが長い時間、音楽なるものに勤しみ、心を奪われている。
(中略)
それ(音楽)には思想がなく、何の提案もしない。姿もシンボルも言語的な要素もない。説明する力もない。世界と関係があるとも限らない。
(中略)
私たちはみな(ごくわずかな例外はあるが)、音楽を認識する。
音質・音色・音程・旋律・和音、そして(おそらく最も基本的な)
脳のさまざまな部位を使って、頭のなかでこれらをすべて統合し、組み立てる。
そしてこの構造的認識に、たいてい激しく深い感情的な反応が加わる。


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この不思議を解き明かすために、
筆者は、音楽の感知能力などが常軌を逸した人たちの例を取り上げます。

たとえば、


突発性音楽嗜好症
  カミナリに打たれて死にかけたあと、突然ピアノにとりつかれ、
  弾きたくていてもたってもいられず、音楽に余生をささげた人など

音楽幻聴
  突然、ある音楽が脳内で鳴り出し、日常生活もままならなくなる。
  なぜ、好きでもないその曲が鳴るのか、本人にもわからない。

失音楽症
  メロディやリズム、あるいはその両方が、全く認識できない。
  たとえが2つの音でどちらが高いかもわからないなど。
  
これらの患者の多くは、事故や脳疾患やなんかで脳の一部を損傷していて、
どうも音楽を感知する部位(耳識ですね)が確かに存在するようです。

さらに、「<音楽的才能>を科学的にいうとどういうことか」
「音楽で感情が動くのはなぜか
」などが、考察されています。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  女ギタリスト、弁財天。



耳にまつわる境・根・識のセットは、損傷がないかぎり強固で、
お釈迦さまの教えといえどもコントールはかなり難しい気がします。
大好きなメロディとリズムを聴いて、眉ひとつ動かさないのは至難の技

修行すればできるのかね?


ですが、初期仏典でも「美しい音楽を奏で」とか出てきますから、
縛られるのでなく「美しい」と感じるぐらいはOK!と勝手に解釈しておりますが。


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