やすらぎの境地を喩えるなら「借金完済」(「阿摩昼経」その2)
ある人に訊かれました。
「で、仏教に帰依すると何の得があるの?」と。
そりゃ、心安らかになるのだから、これ以上の得はないですよ。
とはいえ、我々凡夫には、「心安らか」がどういう状態なのか、
まだ安らかではないので、いまひとつイメージできなかったりします。
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内面にしずけさを行じ、ざわつく心をなくす。
疑いを断ち切り、疑いを超え、心は善なることがらだけを考えるようになる。
(長阿含・第30経「阿摩昼経」)
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「心は歓んでもはや憂い畏れることがない」という境地に至るというのですが、
それはいかなる気分なのでしょう?
「阿摩昼経」の中に、その「もはや憂い畏れることがない」境地を
例えで説明しているところがあります。これがなかなか面白い。
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・召使に対して身分ある人が姓を与え、
安らかに解き放って召使をやめさせる、
その心は歓んでもはや憂い畏れることがないようなものである。
・借金をして事業をなし、非常に利益を得て、
借りを返しても残りの資力が十分ある、
その心は歓んでもはや憂い畏れることがないようなものである。
・長い間病気だった人が、病気がなおって
ものが食べられるようになり、身体の力が充実し、もう大丈夫だと、
その心は歓んでもはや憂い畏れることがないようなものである。
・長い間牢獄に閉じ込められていた人が、
無事に出ることができて「解放された!」と
その心は歓んでもはや憂い畏れることがないようなものである。
・多くの財宝を持って大広野を横切る人が、
盗賊にあわずに無事に通り過ぎることができたとき、
その心は歓んでもはや憂い畏れることがないようなものである。
(『現代語訳 阿含経典 長阿含』4巻、末木文美士訳より要約)
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「借金を返し終わったような安らかな気分」という例は
やたらリアリティがありますねー。
ちなみに、この「阿摩昼経」の特徴は、
お釈迦さまがバラモンの弟子・阿摩昼に対して、
「バラモンより、私たちクシャトリャのほうが優れている」
と徹底的に断言していることです。
十大弟子だってほとんどが都会のクシャトリャかバラモン出身ですし、
帰依した人たちも、新興の武士・商人階級が中心ですよね。
初期仏教が、歴史的に見て、
都市型インテリ坊ちゃん階級の新興宗教だった、ということを再確認した次第です。
出身階級は、クシャトリャ4人、バラモン4人、長者の甥(須菩提)で、
労働者階級はウパーリ(理髪師)ぐらい。

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