死を嘆くお釈迦さまの激白に驚いた(阿含経その10) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

死を嘆くお釈迦さまの激白に驚いた(阿含経その10)

お釈迦さまは、十大弟子の中でも、サーリプッタ(舎利弗)には
絶大な信頼を寄せていたと言われています。
ですが、サーリプッタはお釈迦さまより年上で、
先に亡くなってしまいます。
そのときの「チュンダ」というお経が、『阿含経典』増谷訳・第3巻に出てきました。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  興福寺、阿修羅の近くにいるサーリプッタ像。


サーリプッタが亡くなったのは、故郷・ナーラでした。
サーリプッタの侍者である沙弥=見習い比丘のチュンダは、
その鉢と衣を持ってアーナンダのところに訃報を届け、
そして2人は、お釈迦さまのところに報告にいきます。


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チュンダ(純陀) (相応部47,13、雑阿含24,39)


長老アーナンダは世尊に申し上げた。


「大徳よ、これなる沙弥チェンダは申します。
<大徳よ、長老サーリプッタは亡くなられました。
これがその鉢と衣でございます>と。
大徳よ、わたしは長老サーリプッタが亡くなられたと聞いて、
わたしの身体は酔ったようになりました。
わたしは、まったくどうしてよいか判らなくなりました。
そして、四方のものが見えなくなったように思いました」


(アーナンダは、お経のなかでいつもこのように
うろたえて人間味あふれる役回りです。
それに対してお釈迦さまは、こう、いましめます)。


「アーナンダよ、いったいサーリプッタは、そなたから
戒をすっかり取って死んだのであるか。あるいは、
定をすっかり取って死んだのであるか。あるいは、
慧を・・解脱を・・解脱智見をみんな取っていったのであるか」


「アーナンダよ、わたしはかねがね説いたではないか。
<すべて愛楽(あいぎょう)するところのものは、
移ろい、離れ、別れねばならない>と」

「だからして、自己を洲とし、自己を依拠として、他人を依拠とせず、
法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とせずして住するがよい」

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このお経だけ読むと、
さすがお釈迦さま、愛弟子の死にも動ぜず、と読めるのですが、
実はそんなことはなかったのです。
すぐ次のお経を読んで、わたしはびっくりしました。


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「チューラ(支羅)」(相応部47,14、雑阿含24,40)


その時、世尊は、比丘たちに取り囲まれて、露地に坐しておられた。
時に、世尊は黙然として比丘たちを眺めておられたが、
やがて比丘たちに告げて仰せられた。


「比丘たちよ、サーリプッタとモッガラーナが逝いてから
わたしにとってこの集会は、空虚になってしまったように思われる。
比丘たちよ、サーリプッタとモッガラーナが生きていた頃の思い出がなければ、
わたしには、この集会はなんの期待もない


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そして、アーナンダに説いたのと同じことを語るのです。
形あるものは必ず壊滅する、それはとどめようがない、
わたしもいつか死ぬ、だから自らと法に依拠して生きていけ
、と。


サーリプッタとモッガラーナが死んだときといえば、
お釈迦さまもたぶん70歳代ぐらいですよね?
悟りきって涅槃も間近という年齢ですよね?
そのお釈迦さまでさえ、弟子の死で、心に穴が開いたような空虚さを、

しかも比丘たちの前で吐露している、ということに、わたしはおどろきました。


そして、そのあとに説かれる「すべては滅する、無常である」ということが、
半分は自分に言い聞かせているように、
身をよじって搾り出した想いであるように見えてくるのです。

すでに何百回も繰り返された教えあるにもかかわらず。


木村泰賢先生の本の中に、こんなことが書いてありました。
考え抜いた末に「無常であり、苦である」と悟って、一大思想を築いた釈尊は、
逆に言えば、「永遠である」ことを烈しく希求した人なのだと。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  薬師寺にあるサーリプッタ像。現代物なので写実的。


ちなみに、自灯明法灯明として知られる
「自己と法のみに依拠せよ」(自帰依法帰依)の教えは、
上記の「チュンダ」で初めて説いたものと思われる、
と増谷文雄先生は解説しています。

お釈迦さまが亡くなるときの「遊行経」(長阿含)に出てくるので有名ですが、
サーリプッタの死のほうが先ですからねえ。
その意味でも、「チュンダ」「チューラ」は意義深いお経なのでしょう。


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